第332話 透ける指先
泡里を発ったのは、翌日の昼だった。
老人は約束どおり、泡漁を教えてくれた。貝で泡を受け、声を移し、耳で音の流れを聴いて並べる。だが、二十年ぶんの取り零しは重かった。一晩かけて集めた音で、名前の形まで戻れたものは、ひとつもなかった。「それでも掬うんだ」と老人は言った。「拾える日に拾える者が拾う。それが漁師だ」。桟橋に残る老人の背中は、次の干潮を待つ姿勢のまま、霧に溶けた。
西へ向かう列車の窓が曇っていた。こよいが袖で拭っても、すぐに曇り直す。
外の温度が極端に低いのか、車内との差が大きすぎるのだ。曇りの膜が硝子の表面で呼吸するように広がり、拭いた端から白く戻っていく。指先で触れると、曇りの向こうが一瞬だけ透けて見えた。銀色の流れが、列車と並走している。
「こよい。手を見ろ」
久遠が声を低くして言った。
こよいは自分の右手を見た。
指先が半透明になっている。
向こう側の座席の木目が、うっすらと透けて見える。
星野で名前を呼んだ代償だった。
十三柱分の名前を呼んで戻した結果が、これだ。指先から手の甲にかけて、皮膚の色が薄くなっている。骨の輪郭が透けて見えるほどではないが、光が手を通り抜けていた。行灯の蒼白い炎が手の向こうに見える。自分の手が、硝子のように光を通している。
五十一柱分を呼べば、こよいの身体は消える。
「分かってた」
こよいは右手を握った。
握れる。
感触はある。指が掌に触れる圧力も、爪が皮膚に食い込む微かな痛みも。透けているのは見た目だけで、手は確かにここにある。拳を開き、また握る。筋肉の動きは正常だった。けれど、握った拳の隙間から、座席の木目が見えている。
ただ、見た目が透けているだけだ。
「見た目だけじゃない」
久遠が目録を開いた。
蒼光がこよいの手を照らした。蒼い光が手の表面で反射せず、内側へ染み込んでいく。通常なら肌の表面で弾かれるはずの光が、中まで透過している。久遠の眉間に皺が寄った。
「お前の名前の記録密度が下がっている。存在の情報量が減った。もう一柱呼べば、この世界の理がお前を『記録不足』として判定する可能性がある」
「判定されたらどうなるの」
「間引きの対象になる」
沈黙が落ちた。
列車の車輪が軌道を刻む音だけが続いた。行灯の炎が揺れ、三人の影が壁の上で伸び縮みする。こよいの影だけが、他の二人より薄かった。影の濃さも、存在の密度に比例している。
あさひが口を開いた。
「おい、久遠。俺が呼んだときは、俺も薄くなったか」
久遠が義眼であさひを見た。蒼光があさひの全身を走査する。光はあさひの肌の表面できちんと弾かれた。透過しない。密度が保たれている。
「……いや。お前は変わっていない」
「なんでだ」
「分からない。お前は名前を呼ぶとき、自分の存在を差し出していない。お前の声は——呼ぶというより、命令に近い。名前に対して『戻れ』と言っている。こよいは名前に対して『おいで』と言っている。差し出し方が違う」
こよいは透けた右手を見つめた。おいで、と呼んだ。確かにそうだった。名前が怖がらないように、自分から手を伸ばした。その手が、名前を迎えるための器になった代わりに、こよい自身の存在が削られていった。
あさひが腕を組んだ。
「なら、俺がもっと呼ぶ。こよいは写本を読むだけで、声はあげるな」
「でも——」
「読むだけでいい。名前を確認して、俺に教えろ。俺が呼ぶ。お前は受け皿を整える側だ」
こよいは透けた右手を見つめた。透けた指の間から、行灯の蒼い炎が揺らいで見える。
あさひの提案は理にかなっている。
けれど、名前を呼ぶことを自分だけの仕事にしたかった。
この子たちの名前を、自分の声で——
巾着が脈打った。
温かく、穏やかに。
神々が何か言っている気がした。
言葉にはならないが、伝わってくる。脈動の間隔が、いつもより長い。急いで呼ばなくていい。一人で背負わなくていい。そういうリズムだった。
無理をするな、という意味ではなかった。
一人でやらなくていい、という意味だった。
こよいは息を吐いた。胸の中で何かが緩んだ。名前を呼ぶのは自分だけの仕事だと思っていた。でも、神々も名前たちも、こよいが消えることを望んではいない。
「分かった。あさひに、お願いする」
あさひが小さく頷いた。大きな手を膝の上に置き、拳を一度握って開いた。引き受けた、という仕草だった。
おたまが、こよいの透けた右手の上に、そっと前脚を重ねた。猫の肉球の重みは、透けた指の上でも、少しも空を切らなかった。薄くなっても、ここにいる。そう確かめるような重みだった。
窓の外で、金色の光の糸が数本、列車と並走していた。
まだ帰り着いていない名前たちの糸だ。星野で呼ばれても降りなかった、遠い受け皿を目指す名前たち。糸は霧の中で揺れ、列車の速度に合わせて伸び縮みしている。こよいの呼び声を覚えていて、離れがたいのかもしれなかった。それでも、行き先は、それぞれの井戸だ。見送るように、こよいは窓の糸を目で追った。
列車はその光とともに、霧の中を走り続けた。車輪の音が規則正しく刻まれ、透けた指先に振動が伝わっている。読む者と、呼ぶ者と、記す者。役割が三つに分かれて、背負うものの重さが、初めて言葉で分け合えた気がした。
こよいは透けた右手を膝の上に置き、左手で巾着を握った。
温もりが左の掌から右の指先へ、ゆっくりと流れていく。神々の温もりが、透けた指に色を戻そうとしているように見えた。完全には戻らない。けれど、温もりが通る道筋だけは、確かに感じられた。
透けた指の向こうに、窓の外を流れる金色の糸が重なって見えた。




