第033話 眩しく光る巾着
白い光ではない。
灰色の光。
何もない空間のような、灰色の光。
「っ」
こよいは、目を細めた。
光が強すぎて、何も見えない。
観測者の声が聞こえた。
「異常を検知」
「測定不能の力を確認」
「警戒。後退」
何かが起きている。
水路の神が、何かをしている。
◇
光の中から、虚空が広がった。
巾着から。
小さな巾着から、何もない空間が噴き出している。
存在しない場所が、目の前に広がっていく。
それは、水路の神の本来の力だった。かつて人々が暮らした水路が埋め立てられ、空き地になった時、残されたのはこの「何もない空間」だった。失われた場所の記憶が、今、盾となって広がっている。
虚空が渦を巻いた。
こよいの周りを、ぐるりと回る。
冷たい空間。でも、優しい空間。
「……いけ」
水路の神の声が聞こえた。
今までと違う声。
強い声。
「……いま」
「……はしれ!」
虚空が動いた。
観測者に向かって、突進する。
白い光が、灰色の虚空に押されて後退する。
「っ」
観測者たちが、よろめいた。
包囲の輪が、崩れていく。
隙間が、できた。
◇
「走れ!」
水路の神の声が、叫んだ。
こよいは、足を動かした。
さっきまで動かなかった足が、動いた。
開いた隙間に向かって、走った。
両側に、虚空の壁がある。
観測者を、遮っている。
灰色に光る、虚空の壁。
「……とまらないで!」
水路の神の声。
「……まえを、みて!」
走った。
全力で、走った。
虚空の壁の間を、駆け抜ける。
壁の端が視界の両端で明滅して、足元の地面が滑っていく。何度も転びそうになりながら、それでも止まらなかった。
後ろで、観測者の声が聞こえた。
「対象を逃すな」
「追跡を開始」
でも、追いつけない。
虚空の壁が、邪魔をしている。
水路の神が、道を作ってくれている。
◇
走り続けた。
どのくらい走ったか、分からない。
気がつくと、虚空の壁が消えていた。
後ろを振り返る。
遠くで、観測者の光が点滅している。
追ってきていない。
光が、もとの位置に戻っている。包囲を立て直す余裕はないらしい。
逃げられた。
「……はぁ、はぁ」
こよいは、膝に手をついた。
息が、上がっている。
逃げられた。
本当に、逃げられた。
「……水路」
こよいは、巾着に話しかけた。
「……ありがとう」
返事がなかった。
「……水路?」
巾着を、手に取った。
冷たい。
さっきまで熱かったのに、冷たい。
掌に吸い付くような冷たさで、指先まで痺れている。
軽い。
水路の神の存在感が、薄い。
「……水路!」
こよいは、巾着を握りしめた。
「……大丈夫?返事して!」
◇
「……」
かすかな声が、聞こえた。
本当にかすかな声。
「……つかれた」
水路の神の声。
震えている。弱い。
「力を、使いすぎた?」
こよいは聞いた。
「……うん」
「……ひさしぶりに」
「……ひろがった」
広がった。
そうだ。水路の神は、広がりたかったのだ。
昔のように、自分の場所を持ちたかったのだ。
さっきの虚空。
あれは、水路の神の力。
本来の姿。
何もない場所を作る力。
誰もいない、静かな空間。
「……すこし」
水路の神の声が、さらに小さくなった。
「……やすむ」
「うん」
こよいは、頷いた。
「休んで。ゆっくり休んで」
「……ごめん」
「ごめんじゃないよ」
こよいは、巾着を胸に抱いた。
「水路が助けてくれた。ぼくが、守るから」
沈黙。
水路の神は、もう返事をしなかった。
眠ってしまったのだろうか。
そもそも、神様は眠るものなのだろうか。
ぼくを助けるために、声を出す力さえ使い果たしてしまったのかもしれない。
◇
森の中に、座り込んだ。
大きな木の根元。
暗いけど、観測者はない。
巾着を、握りしめている。
冷たい。でも、そこに水路の神がいる。
弱っているけど、いる。
「……ありがとう」
こよいは、もう一度言った。
「……水路が、道を作ってくれた」
返事はない。でも、分かる。
水路の神は、聞いている。
しおりが、庇ってくれた。
祠の神も、ぼくを助けてくれた気がした。
そして今、水路の神が、道を作ってくれた。
みんなが、助けてくれている。
こよいを、守ってくれている。
「……届けるから」
こよいは、呟いた。
「……必ず、届けるから」
◇
しばらく、動けなかった。
体が疲れている。でも、それ以上に、水路の神のことが心配だった。
巾着が、少しだけ温かくなった。
ほんの少しだけ。
「……水路?」
「……だいじょうぶ」
かすかな声。
「……しんぱい、しないで」
「無理しないで」
「……うん」
沈黙。でも、さっきよりは良い。
水路の神は、生きている。
「……もうすこし」
水路の神の声が、また聞こえた。
「……いったら、つく」
「第三境界?」
「……うん」
「……ぼくのばしょ」
近い。
第三境界が、近い。
水路の神を届ける場所が、近い。
「……行ける?」
こよいは聞いた。
「……いける」
水路の神の声。
弱いけど、確かな声。
「……いっしょに、いこう」
◇
こよいは、立ち上がった。
足が震えている。でも、歩ける。
巾着を、胸に抱いた。
軽い。水路の神が弱っているから。でも、温かくなってきた。少しだけ。
「……行こう」
こよいは、前を向いた。
「……水路を、届けに」
一歩、踏み出した。
暗い森の中。でも、怖くない。
水路の神が、道を作ってくれた。
包囲を、突破してくれた。でも、水路の神は弱ってしまった。
だから、今度はぼくが。
ぼくが、水路の神を届ける。
必ず、届ける。
道が開いた。でも、水路の神が弱った。
その代償を、無駄にしない。




