第034話 歩み出す
ずっと、歩いた。
夜が明けても、歩いた。
足が痛くても、歩いた。
水路の神を届けるために、歩いた。
巾着は、冷たいままだった。
水路の神は、眠っている。
力を使いすぎて、眠っている。
「……もう少し」
こよいは、呟いた。
「……もう少しで、届く」
◇
森の中に、音が響いた。
水の音。
どこかで、水が流れている。
小川のような、澄んだ音。
こよいは、足を止めた。
耳を澄ませる。
「……水の、音」
巾着が、急に温かくなった。
「っ」
こよいは、胸元を押さえた。
冷たかった巾着が、急に温度を取り戻した。
「……水路?」
「……みずの、おと」
かすかな声。
水路の神の声。
「起きた?」
「……うん」
「大丈夫?」
「……だいじょうぶ」
水路の神の声は、まだ弱い。でも、さっきよりは良い。
「……ここだ」
水路の神が、言った。
「……ぼくのばしょ」
◇
森が、開けた。
小川が流れていた。
澄んだ水。透き通った水。
朝日を受けて、輝いている。
こよいは、小川に沿って歩いた。
水の流れる音が、心地よい。
冷たい空気が、澄んでいる。
足の痛みが、少しずつ遠ざかっていく。水の音に合わせるように、足取りが自然と軽くなっていた。
「……この先」
水路の神の声。
「……この先に、ある」
小川を辿っていく。
水が、集まっていく。
細い流れが、太い流れに合流していく。
こよいは、歩くペースを緩めた。水路の神の様子を気にして、胸元の巾着に掌を添える。そこには微かな、鼓動のような温もりがあった。
やがて、泉が見えた。
◇
小さな泉だった。
直径は十メートルほど。
周りには、苔むした岩。
柳の木が、枝を垂らしている。
岩の隙間から、羊歯が青々と葉を広げていた。水辺の空気は、ひんやりと澄んでいて、深呼吸すると胸の奥まで清められるようだった。
水面は、穏やかだった。
澄み切っている。底まで見える。
中央から、水が湧いている。
朝日が、水面を照らした。
金色の光が、水の上で踊っている。
「……ここ」
水路の神の声が、震えた。
「……ぼくのばしょ」
巾着が、温かい。
水路の神の喜びが、伝わってくる。
「……着いたね」
こよいは、言った。
「……うん」
水路の神の声。
「……つれてきて、くれた」
◇
泉のほとりに、しゃがんだ。
巾着を、胸から外した。
手のひらに乗せる。
軽い。
水路の神だけの重さ。でも、確かにそこにいる。
指先で紐をなぞると、昨夜の包囲を突破した時の衝撃が、走馬灯のように胸をよぎった。
「……水路」
こよいは、巾着に話しかけた。
「……うん」
「……寂しい」
「……ぼくも」
沈黙。
水の音だけが、響いている。
「……でも」
水路の神の声。
「……うれしい」
「嬉しい?」
「……ここに、これた」
「……ながれられる、ばしょに」
そうだ。
水路の神は、流れたかったのだ。
自由に、流れたかったのだ。
◇
「……届けるね」
こよいは、言った。
「……うん」
巾着の紐に、手をかけた。
ゆっくりと、開く。
青い光が、溢れ出した。
眩しい。でも、温かい光。
水路の神の光。
光が、巾着から出ていく。
水面に向かって、ゆっくりと。
青い光の球が、浮かんでいる。
「……水路」
こよいは、光を見つめた。
光が、動いた。
泉に向かって、降りていく。
水面に、触れた。
◇
水面が、輝いた。
青い光が、水に溶けていく。
水路の神が、泉と一つになっていく。
泉全体が、青く光った。
柔らかい光。優しい光。
水路の神の光。
「……ありがとう、こよい」
声が聞こえた。
水面から、声が聞こえた。
「……つれてきて、くれて」
「……ながれさせて、くれて」
水路の神の声。でも、さっきより遠い。
泉の中から、響いてくる。
「……こっちこそ」
こよいは、泉に向かって言った。
「……水路が、道を作ってくれた」
「……うん」
「……あのとき、たすけたかった」
「……こよいを」
水路の神が、力を使った理由。
包囲を破った理由。
こよいを、助けるため。
「……ありがとう」
こよいの目から、涙が溢れた。
「……本当に、ありがとう」
◇
泉の光が、少しずつ薄れていく。でも、消えてはいない。
水路の神は、ここにいる。
「……水路」
こよいは、涙を拭いた。
「……また、会える?」
沈黙。
水の音だけが、響く。
「……あえる」
水路の神の声が、返ってきた。
遠い声。でも、確かな声。
「……また、あえるよ」
「いつ?」
「……かみあつめのときに」
神雧。
その言葉を、こよいは知っている。
全ての神が集まる時。
「神雧って、いつ?」
「……わからない」
「……でも、くる」
「……かならず、くる」
水路の神の声が、さらに遠くなる。
溶けていく。泉に溶けていく。
「……まってる」
最後の言葉。
「……かみあつめのときに、また」
そして、声は聞こえなくなった。
◇
泉は、静かだった。
朝日を受けて、輝いている。
さっきより、少しだけ青い。
水路の神が、ここにいる。
この泉の中に、いる。
流れている。
こよいは、空の巾着を握りしめた。
軽い。誰もいない。
布の感触だけが、手のひらに残っている。ずっと重かった巾着が、こんなにも軽いものだったのかと、今さらのように驚いた。
しおりも、祠の神も、水路の神も。
全員、届けた。
それぞれの場所に、届けた。でも、終わっていない。
水路の神が言った。
「神雧の時に、また会える」
神雧。
いつか、全ての神が集まる時。
その時まで、待つ。
こよいは、立ち上がった。
泉を、見つめた。
膝に残る湿った苔の感触を払いながら、一歩下がって泉全体を俯く。水面の青さが、朝日に溶けて穏やかに明滅している。
「……また会おう」
こよいは、言った。
「……神雧の時に」
水面が、一瞬だけ揺れた。
返事のように。
空になったはずの巾着が、その再会の約束の重さで、ほんの少しだけ温かくなった気がした。




