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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第11章 海図の響き

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321/375

第321話 潮の匂い

挿絵(By みてみん)


霧列車(きりれっしゃ)は、黒ずんだ小さな停車場で三人と一匹を降ろした。海図(かいず)の三本の線のうち、いちばん近くで曲げられている北の線——その真下にあたる海岸だった。曲げられた糸の現場を、自分の目で確かめる。それが、呼ぶ時と場所を見極める最初の一歩だった。

 停車場から浜へ下りる道の途中で、潮の匂いが変わった。


 塩ではない。紙と、鉄と、それから——インク(いんく)だ。


 こよいは足を止め、鼻の奥に引っかかる匂いを確かめた。海風に乗ってくるそれは、経蔵(きょうぞう)井戸(いど)で嗅いだものと同じ冷たさを持っていた。凍った目録(もくろく)(ページ)を剥がしたとき、指先にまとわりついた匂い。あれが、ここまで届いている。


 「塩じゃないな」


 久遠(くおん)が足元を見た。波が引いた跡の砂浜が、黒く染まっていた。水が退いた後に残る線が、普通なら白い塩の筋になるはずなのに、ここでは(すみ)のように黒い。


 義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)を細めて砂に近づく。


 「インク(いんく)だ。(すみ)井戸(いど)と同じ質の、記録の残滓(ざんし)地下水脈(ちかすいみゃく)を伝って、ここまで()み出している」


 あさひが波打ち際に立ち、黒い線を靴先でなぞった。


 「海がこの色なのか」


 「海じゃない。潮がインク(いんく)を運んでいるだけだ。名前の欠片(かけら)——文字にもなれなかった断片(だんぺん)が、水に溶けて流されている」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を開き、海図(かいず)の線と浜辺の黒い筋を見比べた。海図(かいず)に描かれた地下水脈(ちかすいみゃく)の経路が、そのまま浜の染みの配置と重なっている。


 こよいはしゃがみ込んで、砂に触れた。指先が黒く染まる。砂粒の一つひとつがインク(いんく)(まと)い、爪の間にまで入り込んでくる。冷たいけれど、神々の冷たさとは違う。これは温度のない冷たさだった。意味を失ったものが持つ、空洞(くうどう)のような感触。


 「名前が、壊れてこうなったの」


 「壊れたわけじゃない」


 久遠(くおん)が首を横に振った。


 「名前の実体が糸になって世界を渡るとき、糸から零れる欠片(かけら)がある。渡り切る力が足りず、地下に落ちた断片(だんぺん)だ。それが水に乗って、ここまで流れ着いた」


 波が寄せてきた。黒い水が砂浜を洗い、また引いていく。その繰り返しのたびに、砂の上の黒い筋が少しずつ濃くなっていた。


 こよいは波の音を聴いた。潮騒(しおさい)の奥に、微かな音が混じっている。文字が()れ合うような、乾いた紙鳴(かみな)りに似た音。


 「聞こえる」


 「何が」


 「紙の音。波の中に、紙が()れるみたいな音がする」


 久遠(くおん)が耳を傾けた。義眼(ぎがん)が蒼く明滅する。


 「……確かに。記録の残響(ざんきょう)だ。文字の形を失っても、音だけが残っている」


 あさひは黒い波打ち際から三歩下がり、乾いた砂の上に立った。


 「気持ちの悪い海だ」


 「海じゃないと言っただろう」


 「海の顔して流れてくるなら海だろうが」


 あさひの声は粗かったが、目は浜辺を注意深く見渡していた。


 おたまが先に、それを見つけていた。波が引いた後の砂の一点で足を止め、動かない。黒い筋の中に、何か光るものがある。小さくて、波に洗われるたびに砂の下に沈みかける。猫の前脚が、沈む寸前のそれを、ちょんと押さえた。


 こよいが駆け寄り、手を伸ばした。指先が触れた瞬間、神々が巾着(きんちゃく)の中で跳ねた。


 貝殻(かいがら)だった。


 親指の爪ほどの白い巻貝(まきがい)。表面は潮に磨かれてなめらかだったが、内側に何かが刻まれている。こよいは貝殻(かいがら)を光に(かざ)した。


 文字だ。


 巻貝(まきがい)螺旋(らせん)に沿って、細い文字が一行だけ刻まれていた。読もうとすると目が滑る。文字が見えているのに、意味が(つか)めない。


 「久遠(くおん)くん」


 差し出した貝殻(かいがら)を、久遠(くおん)が受け取った。義眼(ぎがん)の光を当てる。蒼い光が貝の内側を照らすと、文字が一瞬だけ浮かび上がった。


 「——名前だ」


 久遠(くおん)の声が低くなった。


 「この貝の中に、名前が一柱(ひとはしら)分刻まれている。水に流されて、貝殻(かいがら)の中に宿ったんだ」


 「生きてるの」


 「分からない。だが、文字の形は崩れていない。まだ読める状態で残っている。……面白いな。糸から零れた欠片は普通、意味ごと薄れる。これは貝の螺旋(らせん)が器になって、崩れを()き止めたらしい。巻いた形は、文字を守るのに向いている」


 こよいは貝殻(かいがら)を両手で包んだ。温かくはない。でも、巾着(きんちゃく)の中の神々が脈打つリズムに合わせて、貝殻(かいがら)の表面が微かに震えていた。


 「この子、帰りたいのかな」


 誰にともなく呟いた。


 波が寄せた。黒いインク(いんく)の潮が、こよいの靴先を濡らす。潮騒(しおさい)の中の紙鳴(かみな)りが、ほんの少しだけ高くなった気がした。


 あさひが空を見上げた。曇天(どんてん)の隙間から、薄い光が差している。その光が黒い砂浜に落ちると、インク(いんく)の粒子が鈍い虹色(にじいろ)を一瞬だけ放った。名前の名残(なごり)が、光に触れて最後の色を見せたのかもしれなかった。


 「持っていけ。ここに置いたら、次の潮で沈む」


 こよいは貝殻(かいがら)巾着(きんちゃく)の紐にくくりつけた。神々のそばに、もうひとつの名前を置く。


 布越しに、二つの脈動が重なった。神々の温もりと、貝殻(かいがら)の震え。どちらも小さくて、どちらも消えそうで、でも確かにここにある。


 黒い潮が引いていく。浜辺に残された筋が、夕方の光を吸い込んで鈍く光った。


 三人は浜を離れた。砂に残った三人分の足跡が、次の波で黒いインク(いんく)に染まっていく。おたまの歩いた跡だけは、最初から砂に残っていなかった。背中に潮の匂いが追いかけてくる。インク(いんく)と鉄の匂い、こよいはそれを振り払わず、歩いた。


 この匂いの先に、まだ拾える名前があるかもしれない。

 巾着(きんちゃく)の紐で、小さな巻貝(まきがい)が揺れた。落とさないよ、とこよいは胸の中で言った。届ける場所が見つかるまで。

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