第320話 線が曲がる
三百歩の暗闇を渡り切った先、次の灯の側の小さな停車場に、霧列車は待っていた。乗るべき者の前に現れる列車は、降りた者を拾う場所も知っている。三人と一匹が座席に落ち着いて、間もなくだった。
目録の頁が勝手にめくれた。
久遠が触れていないのに、紙が風もなく動く。港で写し取った海図の線が、頁の上で蠢いていた。
三本の線。北と、西と、下。港で写し取ったときは真っ直ぐだった。その三本が、曲がり始めている。
「おい、見ろ」
久遠が声を低くした。義眼の蒼光を頁に落とす。光が線をなぞると、曲がりの角度が数字になって浮かび上がった。
「北の線が七度東に折れている。西の線は十二度南に。下の線は……上がっている」
「上がる?」
こよいが膝の上の目録を覗き込んだ。
確かに、下へ潜っていたはずの三本目の線が、途中から角度を変えて地表に近づいていた。まっすぐ下に降りていた線が、弧を描いて水平に近づいている。
「名前が道を逸れてる」
こよいの声が上擦った。頁の上の線が、見ている間にもじわりと角度を変えていく。
久遠は頁を押さえた。指の下で線が動くのが分かる。紙が微かに温かい。
「違う。逸れさせられている」
久遠は義眼を閉じ、もう片方の目だけで頁を見た。蒼光を消すと、線の下に別の色が見えた。灰色の細い筋。海図の線に沿って、影のように貼りついている。
「これは——」
久遠が息を呑んだ。
「観測者の誘導線だ。名前の通り道に沿って、別の座標を上書きしている。名前が元いた場所に帰ろうとすると、この灰色の線に引っかかって、別の方角に流される」
あさひが座席から身を乗り出した。
「どこに流してるんだ」
「分からない。だが、三本とも同じ方向に曲げられている。つまり——」
久遠が頁の上で指を動かし、三本の曲線の先端を結んだ。
一点に集まっている。
「一箇所に集められている。散り散りに飛んだ名前を、もう一度ひとつの場所に寄せ集めようとしている」
こよいの胸が冷えた。
経蔵で凍結されていた名前を、墨の井戸でようやく満たし直したのに。写本の頁を錨にして、名前の実体は光の糸となり、元いた場所へ向かって世界を渡っていく——海図の線は、その糸の軌跡だ。五十一の名前の糸が、途中で捕まえ直されようとしている。
「集めてどうするの」
「凍結し直すか、消すか。どちらにしても、名前は元の場所に戻れなくなる。……写本との糸も、そのとき切れる。切れた頁は、ただの紙に戻る」
巾着が冷たく脈打った。
雨の神が怯えている。兄の名前も、あの五十一の中にいる。曲げられた線の先に、兄が引きずり込まれようとしている。
こよいは巾着を握り締めた。布の中で雨の神が震えている。小さな神の恐怖が、掌を通じて骨にまで伝わってきた。
「直せないの。線を、元に戻すことは」
久遠が首を横に振った。
「海図の線は名前の意志で引かれている。名前が自分で元の場所を目指して飛んでいる軌跡だ。着地する前の名前を呼び寄せることはできても、飛んでいる最中の軌道を外から曲げることはできない」
「じゃあ、名前に教えることは」
「何を」
「道が曲げられてるって。本当の道を、名前に教えてやることはできないの」
久遠が黙った。
義眼の蒼光が揺れ、青い光が頁の紙を透かして裏まで届いた。頁の上の線を照らした。灰色の誘導線がじわじわと太くなっている。時間が経つほど、観測者の罠は強くなる。
あさひが布包みの剣の柄を、布越しに叩いた。くぐもった音が車内に響く。
「教えるんなら、声だろう。呼ぶしかねえんだろう」
こよいは頁を見つめた。
三本の線が、ゆっくりと曲がり続けている。一柱ずつ、名前が本来の道から外れていく。経蔵で何千年も待ち続けた名前が、帰り道の途中で攫われようとしている。
「まだ呼べない。呼べば観測者にこちらの位置が——」
「位置なんかとっくにバレてるだろう」
あさひが久遠の言葉を遮った。
「こいつらが線を曲げてるってことは、俺たちが名前を放ったことも知ってるってことだ。隠れてるつもりでも、もう見つかってる」
久遠は口を噤んだ。反論がなかった。
列車が軋んだ。車輪が軌道の継ぎ目を越え、車体が大きく傾ぐ。窓の外の霧が一瞬だけ裂け、金色の光が横切っていった。
名前だ。
今まさに、曲げられた線の上を飛んでいく名前が、列車の横を通過していった。
こよいは窓に手を当てた。硝子越しに、光の残像が目に焼きついている。
あの光の中に、雨の神の兄がいるのだろうか。「先に行って、道を作っておく」——墨の井戸で、無言のまま置いていった約束。その道が今、誰かの手で曲げられている。
巾着が温かくなった。冷えた脈動が、少しだけ戻る。
雨の神が兄の気配を感じ取ったのだ。近い。まだ間に合う距離にいる。
こよいは目録の頁に目を戻した。曲がった線が、まだ完全には折れ切っていない。
まだ、弧を描いている段階だ。弧が折れ角になる前に、名前を呼び戻せば——。
こよいは唇を結んだ。
まだ早い。でも、遅すぎてもいけない。
おたまが、目録の頁の端に顎を載せた。曲がっていく線を、猫の瞳が追う。瞳の奥で、灰色の誘導線だけが、なぜか映っていなかった。猫の目は、名前の側しか見ないのだ。
北の線が、いちばん早く折れていた。弧が角になる前に呼び戻せば——場所は、その線の真下に決まっている。こよいは写本の束に手を当てた。紙は温かかった。名前たちはまだ頁に繋がっている。この温もりが冷めないうちに、北の線の下へ行く。




