第319話 灯の遠み
列車は、灯の絶えた区間の手前で止まった。線路の先が白い——名前ごと剥がされた一帯に、鉄路は続けない。三人は降り、歩いて渡ることにした。
三百歩の暗闇。古い札の井戸から次の灯までの、あの遠み。灯と灯の間とは、つまり、名前と名前の間だ。その空白の底を、三人は歩いていた。
風が薄かった。
吹いてはいる。頬に当たる感触がある。だが音がしない。髪が揺れているのに、揺れる音がない。草が靡いているのに、葉擦れが聞こえない。風が指の間を通り抜けるのに、空気が動く気配だけがあって、音だけが欠けている。
こよいは自分の口元に手を当てて、息を吐いた。
息の感触はある。温かい。掌に当たる湿気もある。だが音がない。吐く息の、あの微かな擦過音さえ消えていた。自分の身体が音を出せなくなったのかと、一瞬だけ喉が痺れた。
「久遠」
声が出た。だが、三歩先にいる久遠に届かなかった。声は口を離れた途端に力を失い、空気の中で萎んでいく。
「久遠!」
二度目は大きく。久遠が振り返った。かろうじて聞こえたらしく、眉をひそめている。義眼の蒼光が薄暗く揺れ、周囲の空気を探るように動いた。
「……声が、遠い」
久遠が目録を開いた。頁を繰る音がしなかった。紙と紙が擦れ合っているのに、耳には何も届かない。久遠の指が頁を捲るたびに、紙の端が震えるのが見えるのに、音だけが消えている。
「この一帯の名前が、根こそぎ剥がされている。名前がないから、空気に中身がない。風は吹くが、風を風たらしめている情報が欠落している」
久遠の声も薄かった。すぐ隣にいるのに、壁の向こうから話しているように聞こえる。言葉の輪郭が曖昧で、母音の端が削り取られている。
あさひが剣の柄を叩いた。金属が鳴るはずだった。鳴らなかった。柄を叩く手応えは腕に返ってくるのに、音だけが空気に呑まれて消える。
「……これは厄介だ」
あさひの声は、三人の中で最も通りが良かった。太い声が薄い空気を無理やり押し分けている。だがそれでも、半分ほどの音量しかない。
こよいは巾着を握った。神々の鼓動が伝わってくる。だが鼓動の音が聞こえない。触感だけがあり、音だけが消えている。掌の中で脈打つ温もりが、音を伴わないことで、かえって生々しかった。
「名前を呼ばないと」
こよいが言った。自分の声が、自分の耳にさえ遠い。口から出た言葉が、三寸先で溶けていく。
「ここで呼んでも届かない。空気が名前を運べないんだ。器が空だから、中身を入れても溢れる」
久遠の分析は正確だった。だがそれは、ここでは名前を着地させられないということだ。
こよいは目を閉じた。
音がない世界は、思っていたよりも怖かった。目を閉じれば何もない。風の感触だけがあり、それ以外の全てが消えている。暗闇よりも深い無音。暗闇には音がある。ここには音がない。名前を剥がされるとは、こういうことなのだ。世界から、厚みが消える。奥行きが消える。立体だったものが平面になり、平面だったものが線になり、線が点に縮んでいく。
目を開けた。
「叫ぶ」
久遠が顔を上げた。
「何を」
「名前を。ここの空気が薄いなら、声を大きくするしかない。薄い空気でも、大きな声なら少しは届く」
「身体が削られるぞ。こんな場所で大声を出したら、声と一緒に自分の輪郭まで飛ぶ」
こよいは分かっていた。それでも、ここを黙って通り過ぎることはできなかった。
この一帯に名前がないということは、かつてここに名前があったということだ。剥がされた名前たちが、声を待っている。薄い空気の向こうで、耳を澄ませている。
「一人じゃ足りないなら、二人で叫ぶ」
あさひが隣に来た。大きな足が、音のない地面を踏む。振動だけがこよいの足裏に伝わった。
「俺の声は太い。お前の声と重ねれば、薄い空気でも割れる」
「あさひ——」
「ごちゃごちゃ言うな。やるなら今だ」
久遠は目録を構えた。降りてきた名前を記録する準備だった。反対はしなかった。反対しても、この二人は止まらないと知っている顔だった。義眼の蒼光を少しだけ強め、空中を監視する体勢に入った。
こよいは写本を取り出した。この地域で失われた名前の一覧。五つの名前が書かれている。墨の文字が紙の上で微かに震えていた。名前が、呼ばれるのを待っている。
「呼べば、観測者に知れるんじゃ」
「ここは、もう白だ」
久遠が薄い声で言った。
「名前ごと剥がされた場所には、観測の目も残っていない。見張るべきものが、ないからだ。……皮肉だが、呼ぶなら、ここがいちばん安全だ」
最初の名前を、声にした。
「あまね!」
声が出た。薄い空気に弾かれ、すぐに散った。三歩先にも届かない。声が空気にぶつかり、壁に当たったように跳ね返ってくる。
あさひが同じ名前を叫んだ。
「あまね!」
太い声が、こよいの声の残響に重なった。二つの声が束になり、薄い空気を無理やりこじ開ける。音が走った。十歩分。二十歩分。それでも、まだ足りない。
こよいは息を吸い、腹の底から声を絞った。
「あまね!」
あさひの声と、こよいの声。二つが同時に空気を叩いた。
薄い風が、一瞬だけ厚くなった。
名前が、地面に落ちた。
光の糸が一本、空中から垂れ下がり、足元の土に染みた。こよいの指先が白くなった。輪郭が削れている。だが名前は降りた。
久遠が記録した。
「次」
こよいは二つ目の名前を読んだ。
「みさき!」
あさひが追いかける。
「みさき!」
声が重なる。空気が軋む。名前が落ちる。こよいの手の甲から色が抜けた。
三つ目。
「はるか!」
喉が焼けた。声が掠れ、割れた。あさひの声だけが空気を裂き、名前を引きずり降ろした。
こよいは膝をついた。
巾着が熱い。神々が全力で温もりを送り、削れた輪郭を補おうとしている。だが追いつかない。温もりが指先に届く前に、輪郭が溶けていく。
「……あと、二つ」
「止めろ」
久遠が目録を閉じた。
「三つ降ろした。お前の声はもう限界だ。残りは次の場所で呼ぶ」
「でも——」
「ここで全部呼んだら、お前の名前が先に消える」
こよいは口を閉じた。
喉が痛い。声を出すたびに、自分の中から何かが漏れていた。名前を呼ぶとは、自分の名前を少しずつ分け与えることなのだ。
あさひがこよいの腕を引いて立たせた。大きな手が腕を掴み、引き上げる力は乱暴なのに、指先だけは丁寧にこよいの袖を避けていた。
「三つで充分だ。残りはまた来る」
三人は薄い風の中を歩き始めた。声はまだ遠い。足音もまだ聞こえない。だが、さっきより少しだけ、風に厚みが戻っていた。
三つの名前が、この空気に降りたからだ。
名前があるところには、音が生まれる。声が届く。風が鳴る。
こよいは振り返らなかった。
残した二つの名前が、薄い空気の向こうで待っていることだけを、胸に刻んだ。
おたまが、こよいの掠れた喉元へ、頭をひとつ擦り付けた。猫の毛の温もりが、焼けた喉に、薬のように染みた。
喉の痛みが、約束の代わりだった。




