第318話 影の発車
列車が動き出した瞬間、こよいはホームに残された影を見た。
三人分の影が、石の上に貼りついたまま剥がれない。四つ目の、猫の形の影だけは、最初からそこに残っていなかった。置いていくものが、猫にはないのだ。列車の車体が前へ滑り出しても、影だけがそこに立ち尽くしている。
「……久遠くん」
こよいは窓に額を押しつけた。冷たい硝子が肌を刺す。
「影が、置いていかれてる」
久遠は向かいの座席から身を起こし、窓の外を見た。義眼の蒼光が硝子に反射して、車内に青い筋を引く。
「影じゃない。あれは座標の痕だ。この停車場に降りた者の記録が、石に染みついている」
ホームが遠ざかっていく。石の表面に残った三つの影が、霧に滲んでいる。三つの影は動かない。立ったまま、列車を見送るような姿勢で、霧の中に沈んでいった。
こよいは自分の足元を見た。
座席の下に伸びる自分の影が、妙に長い。油灯の位置から考えても、ここまで伸びるはずがなかった。影の先端が座席の脚を超え、通路を横切り、向かいの壁に届いている。
「ぼくの影、変だ」
「触るな」
久遠の声が鋭かった。
「影が伸びるのは、名前の残滓を拾っているからだ。この列車は名前の通り道を走っている。軌道の上に散った名前の欠片を、影が吸い取っている」
あさひが通路に片膝をつき、こよいの影の先端を覗き込んだ。
「……文字がある」
あさひの目が細くなった。剣を持つ手に力が入っている。
影の中に、薄く光る文字が浮かんでいた。読めない。だが確かに、誰かの名前の一部だった。
「こいつは——」
あさひが顔を上げた。
「桟橋で斬った、あの軍勢の影の残りだ。踏切のように行く手を塞いだ列——名前を奪われた奴らが、影だけこの軌道に落としていったんだろう」
列車が加速した。車輪の音が高くなる。窓の外の霧が厚みを増し、光を遮り始めた。油灯の炎が横に傾ぎ、壁の影が一斉に揺れる。揺れた影の長さが、それぞれ違った。持ち主の疲れの分だけ、影は伸びるのかもしれなかった。
こよいの影も揺れた。だが他の影とは逆の方向に。
巾着が脈打った。温かい。神々が、影の中の名前に反応している。
「この名前、神々が知ってる子かもしれない」
こよいは巾着を膝の上に載せた。布越しに、小さな鼓動が伝わってくる。
久遠が目録を開いた。白紙の頁に、海図の線がまだ微かに残っている。港で写し取った三本の線。北と、西と、下。
「名前は影を通じても移動する。本体が光の糸なら、影は名前の裏側だ。表と裏の両方が揃わないと、名前は完全な形に戻れない」
こよいは自分の影をもう一度見た。
伸びた影の先端で、文字がゆっくりと消えていく。列車が通り過ぎるたびに、軌道の上の名前の欠片が風に散らされているのだ。
「消える前に、拾えないの」
「拾うには呼ぶしかない。だが今はまだ早い。呼べば、観測者にこちらの位置を教えることになる」
あさひが窓に背を預けた。腕を組み、目を閉じる。
「急ぐな。影は急がない。急いだ奴の影から、先に千切れる」
列車は霧の中を走り続けた。
窓の外には何も見えない。音だけがある。車輪が軌道を叩く規則正しい拍と、連結部が軋む低い呻き。その二つの音の間に、もうひとつ、微かな音が混じっていた。
名前が軌道の上を転がる音だった。
石が河底を転がるような、小さく丸い音。こよいは耳を澄ませた。音は列車の進行方向と逆に流れていく。名前たちは、列車とは反対の方向へ向かっている。
「北じゃない」
こよいが呟いた。
「この音、後ろに流れてる。名前が戻ってる」
久遠が目録の頁をめくった。海図の線が、頁の上で微かに震えている。
「戻っているんじゃない。引き戻されている」
義眼の蒼光が強くなった。久遠の表情が硬い。
「観測者だ。音の流れる向きが、海図の線の向きと正確に逆——写本の頁も、糸を引き戻される側に微かに引かれている。間違いない。経蔵から放たれた名前を、もう一度集め直そうとしている。軌道の上に罠を張って、影の中に残った欠片を餌にして」
列車が揺れた。
油灯の炎が消えかけ、車内が暗くなる。こよいの影が床の上で伸縮を繰り返し、そのたびに影の中の文字が明滅した。
巾着が強く脈打つ。痛いほどに。
神々が何かを訴えている。この影の中にいる名前が、引き戻される前に、助けてほしいと。
こよいは両手で巾着を包んだ。
「大丈夫。まだここにいる」
声は小さかったが、車内の冷気を震わせた。名前を呼んだのではない。ただ、いることを認めた。それだけでも、影の中の欠片には届くらしかった。呼べない旅の中で、こよいはまた一つ、呼ばずに届かせる方法を覚えた。
影の中の文字が、一瞬だけ強く光った。それから静かに沈み、こよいの影に溶けるようにして消えた。
おたまが、こよいの伸びた影のいちばん先に、そっと前脚を置いた。影の中の名前の欠片が、猫の足の下で、落ち着きを取り戻すように静まっていく。表と裏の揃わないものたちを、猫は両方の側から、なだめることができるらしかった。
列車は止まらない。霧は晴れない。
けれど巾着の温もりだけが、手のひらの中で確かに残っていた。引き戻されていく名前たち。呼べば知れる位置。ジレンマは重いまま、列車は北へ走り続けた。




