第322話 濡れた切符
浜から停車場へ戻ると、霧列車はまだ待っていた。次に確かめるのは、西の線の曲がり。三人と一匹は再び乗り込み、列車は黒い海岸を後にした。
座席に落ち着いてすぐ、あさひが座席の隙間から紙切れを引き抜いた。
「なんだ、これ」
指先に摘まれた紙は、切符の形をしていた。角が丸く、端に切り込みが入っている。駅で切られた跡だ。だが紙全体が水を含んで、柔らかくたわんでいた。
あさひの指から雫が落ちた。
「濡れてる。海水だ」
こよいは鼻を近づけた。潮の匂いがする。それだけではない。乾いた紙が水を吸ったときの、繊維が膨らむ独特の匂いも混じっていた。列車の中に海水があるはずがなかった。窓は閉まっている。雨も降っていない。
「どこから来たの、これ」
久遠が手を伸ばした。
「見せろ」
あさひが切符を渡す。久遠は義眼の蒼光を当てた。濡れた紙の上に、滲んだ文字が浮かび上がる。
名前だった。
一柱分の名前が、墨で書かれている。だが水に流されて、文字の輪郭が崩れかけていた。右端の一画はもう読めない。左端の偏だけが、かろうじて形を保っている。
「漂白された名前だ」
久遠の声が低くなった。
「観測者に名前を奪われた者の切符だ。名前を洗い流された後、切符だけがここに残った。……乗客がいたんだ。俺たちの前に」
こよいは息を止めた。座席の布に手を置く。自分たちが座っているこの席にも、数え切れない乗客の記憶が染みているのだ。霧列車は乗るべき者の前に現れる。この切符の主も、乗るべき者だった。
この列車に、自分たちより前に乗っていた者がいた。名前を持っていた。切符を買って、どこかの停車場から乗り込んだ。けれど途中で名前を奪われ——漂白され——切符だけが座席の隙間に落ちた。
「その人は、どこに行ったの」
「どこにも行けなかっただろう。名前を失えば、切符も無効になる。列車は名前のない者を運ばない。途中で降ろされたか、消されたか」
久遠が切符を裏返した。裏面にも文字がある。こちらは墨ではなく、刻印だった。水に濡れても消えない、石の型で押された文字。
行き先だった。
「星野」
こよいが読み上げた。
この人も、星野に向かっていたのだ。名前を持って、切符を握って、同じ列車に乗って。
巾着が脈打った。弱く、悲しげに。
神々が切符の名前に反応している。知っている名前なのかもしれない。五十一の写本に含まれていない、枠の外の名前。
「これ、写本にない名前だ」
こよいは写本の束を膝の上に広げた。三十七柱と十四柱。合わせて五十一。一枚ずつ確認していく。
ない。切符の名前は、写本のどこにも記されていなかった。
「経蔵にも市場にもなかった名前が、切符の上にだけ残っている」
久遠が切符を光に翳した。
「つまりこの名前は、記録から完全に消されたわけじゃない。漂白されたが、切符という形で痕跡が残った。切符は名前の器ではなく、名前が通過した証拠だ。証拠は消しにくい」
あさひが腕を組んだ。
「で、その証拠をどうする。名前はもう読めねえぞ。半分以上流れてる」
「読めなくても、呼べるかもしれない」
こよいが言った。自分でも驚くほど、静かな声だった。
「名前の全部が分からなくても、残ってる部分だけで呼んだら、名前のほうから応えてくれるかもしれない。雨の神がそうだった。最初にぼくが雨の神を見つけたとき、名前なんて知らなかった。でも声をかけたら、向こうから来てくれた」
久遠が眉を寄せた。
「それとこれは違う。雨の神は生きていた。この切符の主は——」
「生きてるか死んでるか、分からないでしょ」
こよいの声に、硬さが混じった。
「分からないなら、呼んでみるしかない。呼んで、応えがなければ、そのときに諦める」
久遠は何か言いかけて、口を閉じた。義眼の蒼光が揺れ、窓硝子に蒼い光の筋が映った。反論の言葉は、たぶんいくつもあった。危険だ、代償がある、確証がない。けれどそのどれもが、「呼ばなければ確かめられない」という一点の前では弱かった。
あさひが鼻で笑った。だが、その目は笑っていなかった。真っ直ぐにこよいを見ている。
「ガキのくせに、言うようになったな」
こよいは切符を受け取った。濡れた紙は冷たく、持った途端に指の熱が紙に吸い込まれていくのが分かった。指先に潮の匂いが移った。崩れかけた文字を見つめる。偏だけの、半分の名前。
この名前の持ち主は、どこかの霧の中にいるのだろうか。名前を失って、切符を落として、ひとりで。行き先だけは、まだ刻印の中に残っている。行けなかった星野へ、この切符を代わりに連れて行くことは、できる。
巾着の脈動が、切符の湿り気と重なった。神々の温もりと、切符の冷たさ。二つの温度が掌の中でぶつかり合う。
おたまが、切符の匂いを長いこと嗅いでいた。それから、こよいの手の甲に一度だけ頬を寄せた。持っていけ、と言われた気がした。
こよいは切符を写本の束の間に挟んだ。五十一枚の写本と、一枚の濡れた切符。
数には、加えない。切符は名前の器ではなく、通過の証拠——文字も半分流れ、生死も分からない。五十一は五十一のまま。けれど、束は一枚ぶん、重くなった。
「……もう一人、預かったからね」
こよいは巾着に向かって小さく言った。
神々が応えるように、温かく脈打った。
列車の窓の外で、霧が少しだけ薄くなった気がした。




