第315話 浜の残骸
灯から灯へ辿る道は、途中で浜に出た。
灰色の砂の浜に、船の残骸が並んでいた。座礁したまま朽ちた小舟が五隻。船腹の名前は、どれも削り取られている。名前を失った船は、海に出ることも、岸に還ることもできず、ただ浜で骨になる。三人は残骸の間を縫って歩いた。おたまが、いちばん古い船の舳先に一度だけ前脚をかけ、すぐに降りた。弔いにも似た、短い挨拶だった。
残骸の浜の先、石畳が再び始まる場所に——それは、あった。
波は、海から来るものだと思っていた。
けれど海図の港の波は、地面の裂け目から立ち上がっていた。
石畳の端、霧の底。
そこにあるのは水面ではなく、薄い膜のような揺れで、触れれば指が沈むのではなく、文字が沈んだ。膜の表面は透明に見えるが、角度を変えると文字の影が揺らめいている。水の中の藻のように、文字が膜の内側で漂っていた。
こよいは膝をつき、膜に指先を当てた。冷たい。だが水の冷たさではない。
読めない文章を、無理やり口に含んだときの冷え方だ。舌の上で意味が溶けずに残る、あの異物感が指先に宿っている。
膜の向こうで、泡が弾けた。白い泡はすぐに消えず、短い言葉になって、また散った。言葉の形をした泡が膜の裏側に張りつき、一瞬だけ文字の輪郭を見せてから霧散する。
読めないのに、意味だけが胸に引っかかる。
「……入口だ」
久遠が低く言った。声が膜の表面を揺らし、新しい波紋が広がった。
「何の?」
「波の。いや……『記録の裏側』の。ここから先は、海じゃない。海のふりをした、目録の裏側だ」
義眼の蒼光が膜に落ち、表面に一瞬だけ細い線が走る。蒼い光が膜の中を透過し、裏側の構造を照らし出そうとする。線はすぐに崩れて、また波の揺れに戻った。読み取ろうとすると逃げる。情報が、観測を拒んでいる。
あさひが靴の先で軽く蹴ると、膜は破れずに、逆に足首の影だけを持っていった。
影が薄く引き伸ばされ、波の揺れと同じリズムで、遠くへ引かれていく。あさひの足元から影が剥がれ、膜の上を滑るように流れていった。
「……持っていかれた」
こよいが言うと、あさひは笑った。口の端だけが上がる、短い笑い方だった。
「影ならいい。命を持っていかれる前に、こっちから持っていく」
布包みの剣の先で、あさひは膜の上に小さく円を描いた。包みの先端が膜に触れるたびに、接触点から小さな光の粒が散る。
すると、波が一瞬だけ止まる。
止まった場所だけが、入口の縁取りみたいに暗く沈んだ。円の内側だけが一段深く、その深さの中に別の空間が口を開けている。
こよいは巾着を胸に寄せた。神々が、膜の向こうへ向かうように脈打っている。布の中で、神々が入口の方角を向いている。温もりが胸の左側に偏り、入口のある方向を指し示していた。
「……大丈夫。行こう」
自分に言い聞かせるように、こよいは言った。声が震えていないことに、自分で驚いた。
入口は口を開けて待っている。吞み込むためではなく、越えさせるために。
三人が足を踏み出すと、膜は水にならなかった。代わりに、足音の下で文字が千切れ、波の形に組み直されていった。踏むたびに文字が壊れ、壊れた文字が新しい波の模様になる。こよいの足跡の形に、一瞬だけ文字が並び替わり、すぐにまた崩れた。
こよいは足首の冷えを感じた。冷えが骨へ届く前に、雨の神の温もりが胸を打つ。温もりが血を通して足先まで降り、冷えを押し返す。
入口を越えた瞬間、空気が変わった。
湿り気が増したのではない。重さが変わった。空気に文字の重みが混じっている。息を吸うたびに、読めない言葉が肺に入る感覚がある。吐く息に、微かな味がついた。インクの味ではない。もっと古い、紙と糊が朽ちた味だった。
久遠が足を止めた。
「ここから先は、名前が水のように流れている。潮と一緒に、満ちたり引いたりする」
「名前が?」
「写本に書かれた名前の複製が、この海域を漂流している。潮が満ちると名前は陸に上がり、潮が引くと海に戻る。上がった名前は一時的に地上に降りるが、すぐにまた引かれていく」
こよいは足元を見た。膜を越えた先の地面は、薄く水を被っていた。水ではない。光の薄膜だ。その上を歩くたびに、足跡の形に文字が浮かんでは消える。
「今は満ちてる? 引いてる?」
あさひが訊いた。
久遠は水面に手をかざした。義眼の光が、薄膜の下を走査する。蒼光が薄膜を貫き、その下に広がる名前の層を照らし出した。層は厚く、密度が高い。だが、端の方から薄くなり始めていた。
「引き始めている。あと半刻もすれば、ここの名前は全て海に戻る。呼ぶなら今だが——」
「呼べば、観測者に位置を教える」
こよいが久遠の言葉を先に言った。何度も聞いた警告だった。
久遠は小さく頷いた。
「ここでは呼ばない。呼ばずに、流れの方向だけを記録する。名前がどこに向かって引いていくか。その先に、名前が集まる場所がある」
目録に海図の線を書き足していく。潮の流れに沿って、名前の動きを矢印で記す。北東へ。全ての矢印が、同じ方向を向いていた。筆先が紙の上を走るたびに、矢印が微かに光る。名前の流れと同じ方角を示す矢印が、頁の上で小さく脈打っていた。
こよいはしゃがんで、薄膜の上に指を置いた。
水のように冷たく、水のように流れている。だが指に触れた瞬間、名前の一部が指先に残った。読めないが、温もりがある。この名前は、まだ生きている。指先に残った温もりが、巾着の中の神々の温もりと同じ種類のものだった。
「……ごめんね。今は呼べないけど」
こよいは小さく呟いた。声は膜に吸われ、波の形になって、北東へ流れていった。
あさひが空を見上げた。霧の向こうに、空の色が微かに見える。暗い紺色に、灰色の霧が混じっている。
「潮の匂いがする。ここからが本番だ」
三人は立ち上がり、潮の流れに沿って歩き始めた。
足元で名前が流れている。声にはできない。でも、流れの先にある場所を目指すことはできる。
入口を越えた者には、出口がある。
そう信じるための根拠は、巾着の温もりだけだった。それで充分だと、こよいは思った。
流れに沿った道は、やがて緩い上りに変わり、その先で、古い石段に合流した。記録の裏側から、表側へ戻る階段。上の方から、微かに潮の匂いと、霧の白さが降りてくる。石段の先にあるのは——港の中枢だ。




