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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第11章 海図の響き

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315/344

第315話 浜の残骸

挿絵(By みてみん)


灯から灯へ辿る道は、途中で浜に出た。

 灰色の砂の浜に、船の残骸が並んでいた。座礁したまま朽ちた小舟が五隻。船腹の名前は、どれも削り取られている。名前を失った船は、海に出ることも、岸に還ることもできず、ただ浜で骨になる。三人は残骸の間を縫って歩いた。おたまが、いちばん古い船の舳先(へさき)に一度だけ前脚をかけ、すぐに降りた。弔いにも似た、短い挨拶だった。

 残骸の浜の先、石畳が再び始まる場所に——それは、あった。


 波は、海から来るものだと思っていた。


 けれど海図(かいず)の港の波は、地面の()()から立ち上がっていた。

 石畳(いしだたみ)の端、(きり)の底。


 そこにあるのは水面ではなく、薄い(まく)のような揺れで、触れれば指が沈むのではなく、文字が沈んだ。(まく)の表面は透明に見えるが、角度を変えると文字の(かげ)が揺らめいている。水の中の()のように、文字が(まく)の内側で漂っていた。


 こよいは(ひざ)をつき、(まく)に指先を当てた。冷たい。だが水の冷たさではない。

 読めない文章を、無理やり口に含んだときの冷え方だ。舌の上で意味が溶けずに残る、あの異物感が指先に宿っている。


 (まく)の向こうで、(あわ)が弾けた。白い(あわ)はすぐに消えず、短い言葉になって、また散った。言葉の形をした(あわ)(まく)の裏側に張りつき、一瞬だけ文字の輪郭(りんかく)を見せてから霧散する。

 読めないのに、意味だけが胸に引っかかる。


 「……入口だ」


 久遠(くおん)が低く言った。声が(まく)の表面を揺らし、新しい波紋(はもん)が広がった。


 「何の?」


 「波の。いや……『記録の裏側(うらがわ)』の。ここから先は、海じゃない。海のふりをした、目録(もくろく)の裏側だ」


 義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)(まく)に落ち、表面に一瞬だけ細い線が走る。蒼い光が(まく)の中を透過し、裏側の構造を照らし出そうとする。線はすぐに崩れて、また波の揺れに戻った。読み取ろうとすると逃げる。情報が、観測を拒んでいる。


 あさひが靴の先で軽く()ると、(まく)は破れずに、逆に足首の(かげ)だけを持っていった。


 (かげ)が薄く引き伸ばされ、波の揺れと同じリズムで、遠くへ引かれていく。あさひの足元から(かげ)()がれ、(まく)の上を滑るように流れていった。


 「……持っていかれた」


 こよいが言うと、あさひは笑った。口の端だけが上がる、短い笑い方だった。


 「(かげ)ならいい。命を持っていかれる前に、こっちから持っていく」


 布包みの剣の先で、あさひは(まく)の上に小さく円を描いた。包みの先端が(まく)に触れるたびに、接触点から小さな光の粒が散る。

 すると、波が一瞬だけ止まる。

 止まった場所だけが、入口の縁取りみたいに暗く沈んだ。円の内側だけが一段深く、その深さの中に別の空間が口を開けている。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に寄せた。神々が、(まく)の向こうへ向かうように脈打っている。布の中で、神々が入口の方角を向いている。温もりが胸の左側に(かたよ)り、入口のある方向を指し示していた。


 「……大丈夫。行こう」


 自分に言い聞かせるように、こよいは言った。声が震えていないことに、自分で驚いた。


 入口は口を開けて待っている。吞み込むためではなく、越えさせるために。


 三人が足を踏み出すと、(まく)は水にならなかった。代わりに、足音の下で文字が千切れ、波の形に組み直されていった。踏むたびに文字が壊れ、壊れた文字が新しい波の模様になる。こよいの足跡の形に、一瞬だけ文字が並び替わり、すぐにまた崩れた。


 こよいは足首の冷えを感じた。冷えが骨へ届く前に、雨の神の温もりが胸を打つ。温もりが血を通して足先まで降り、冷えを押し返す。


 入口を越えた瞬間、空気が変わった。


 湿り気が増したのではない。重さが変わった。空気に文字の重みが混じっている。息を吸うたびに、読めない言葉が肺に入る感覚がある。吐く息に、微かな味がついた。インク(いんく)の味ではない。もっと古い、紙と(のり)が朽ちた味だった。


 久遠(くおん)が足を止めた。


 「ここから先は、名前が水のように流れている。(しお)と一緒に、満ちたり引いたりする」


 「名前が?」


 「写本(しゃほん)に書かれた名前の複製が、この海域を漂流している。(しお)が満ちると名前は陸に上がり、(しお)が引くと海に戻る。上がった名前は一時的に地上に降りるが、すぐにまた引かれていく」


 こよいは足元を見た。(まく)を越えた先の地面は、薄く水を(こうむ)っていた。水ではない。光の薄膜(はくまく)だ。その上を歩くたびに、足跡の形に文字が浮かんでは消える。


 「今は満ちてる? 引いてる?」


 あさひが訊いた。


 久遠(くおん)は水面に手をかざした。義眼(ぎがん)の光が、薄膜(はくまく)の下を走査(そうさ)する。蒼光(そうこう)薄膜(はくまく)を貫き、その下に広がる名前の層を照らし出した。層は厚く、密度が高い。だが、端の方から薄くなり始めていた。


 「引き始めている。あと半刻(はんこく)もすれば、ここの名前は全て海に戻る。呼ぶなら今だが——」


 「呼べば、観測者(かんそくしゃ)に位置を教える」


 こよいが久遠(くおん)の言葉を先に言った。何度も聞いた警告だった。


 久遠(くおん)は小さく(うなず)いた。


 「ここでは呼ばない。呼ばずに、流れの方向だけを記録する。名前がどこに向かって引いていくか。その先に、名前が集まる場所がある」


 目録(もくろく)海図(かいず)の線を書き足していく。(しお)の流れに沿って、名前の動きを矢印で記す。北東へ。全ての矢印が、同じ方向を向いていた。筆先が紙の上を走るたびに、矢印が微かに光る。名前の流れと同じ方角を示す矢印が、(ページ)の上で小さく脈打っていた。


 こよいはしゃがんで、薄膜(はくまく)の上に指を置いた。


 水のように冷たく、水のように流れている。だが指に触れた瞬間、名前の一部が指先に残った。読めないが、温もりがある。この名前は、まだ生きている。指先に残った温もりが、巾着(きんちゃく)の中の神々の温もりと同じ種類のものだった。


 「……ごめんね。今は呼べないけど」


 こよいは小さく(つぶや)いた。声は(まく)に吸われ、波の形になって、北東へ流れていった。


 あさひが空を見上げた。(きり)の向こうに、空の色が微かに見える。暗い紺色に、灰色の(きり)が混じっている。


 「(しお)の匂いがする。ここからが本番だ」


 三人は立ち上がり、(しお)の流れに沿って歩き始めた。


 足元で名前が流れている。声にはできない。でも、流れの先にある場所を目指すことはできる。


 入口を越えた者には、出口がある。


 そう信じるための根拠は、巾着(きんちゃく)の温もりだけだった。それで充分だと、こよいは思った。

 流れに沿った道は、やがて緩い上りに変わり、その先で、古い石段に合流した。記録の裏側から、表側へ戻る階段。上の方から、微かに潮の匂いと、霧の白さが降りてくる。石段の先にあるのは——港の中枢だ。

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