第316話 門番の光
石段を上りきると、港が見えた。
霧の向こうに、灯台の影が立っている。高さは見当がつかない。頂上が霧に呑まれて、根元だけが石畳の埠頭に食い込んでいた。灯台の石は周囲の石畳とは色が違い、黒ずんだ花崗岩のような暗い肌をしている。表面に潮の白い結晶が薄く張りつき、それが霧の中でぼんやりと光っていた。
灯台の光が回っている。
等間隔で、白い光が埠頭を舐めるように走る。光が通過するたびに、石畳の亀裂から蒼白い液体が光り、消えた。液体は亀裂の中を走り、光が去ると闇に沈む。光が来るたびに息をし、光が去ると息を止める。
こよいは足を止めた。光が近づくと、空気が重くなる。肩に圧がかかる。見えない手で上から押さえつけられるように、膝が微かに撓む。通過すると、圧が抜ける。身体が浮くような解放感がほんの一瞬だけ訪れ、すぐに次の圧が迫ってくる。呼吸を光の間隔に合わせなければ、息がつまりそうだった。
「検知装置だ」
久遠が義眼を細めた。蒼光を絞り、灯台の光に紛れないようにしている。蒼光の出力を落とすと、久遠の目元の皮膚が微かに青白く見える。義眼の光を抑える分、生身の顔に負荷がかかっていた。
「あの光に照らされた位置情報は、全て観測者に送られている。港全体が監視下にある」
「避けられるか」
あさひが光の軌道を目で追っていた。回転の間隔を体で数えている。腹の底で拍を刻み、足の指で地面を掴みながら。
「間隔は七秒。次の光が通り過ぎてから柱の影に入れば、五秒は死角になる」
あさひの足が地面を確かめるように動いた。靴底で石畳の質を読んでいる。滑るか、踏ん張れるか。右足で踏み、次に左足で重心を移し、石の硬さと湿り気を足裏で読み取っている。
光が通過した。
「今」
あさひが走った。低い姿勢で、足音を殺して。埠頭の柱の陰に滑り込む。大きな身体が柱の影に吸い込まれるように消え、石畳に残った足音の反響だけがすぐに散った。
五秒後、光が追いかけてきた。柱の影があさひを隠した。光が通り過ぎる。白い光が柱の表面を舐め、影の縁を削るように走って、去っていった。
あさひが手を振った。次の死角の合図。
こよいと久遠が走った。巾着を胸に押さえ、写本を懐に固定して。石畳の蒼白い液体を踏まないように、亀裂を避けて走る。巾着の中で神々が暴れるように脈打ち、走る振動と脈動が腕の中で絡み合った。
柱の陰に入った瞬間、光が背後を通過した。肩に圧が掠めた。間に合った。圧の残りが背中を撫でて去り、冷たい風が代わりに入り込む。
久遠の額に汗が浮いていた。義眼を最小限まで絞ったまま、目録を抱えている。
「灯台の根元に、封印の杭がある。あれが光の制御装置だ」
「壊せるのか」
「物理的には無理だ。だが、光の出力は下がり始めている。回転の間隔が、さっきより長い」
あさひが空気を嗅いだ。鼻先で間隔を測り直す。
「七秒じゃない。八秒になった」
「経蔵が崩壊した影響だ。観測者の制御系統に綻びが出ている。時間が経てばもっと緩む」
「待つのか」
久遠が首を振った。
「待つ必要はない。光の死角を繋いで港の奥まで行ける。杭を壊さなくても、光の隙間を抜ければいい」
あさひが次の柱を見定めた。十歩先。光の軌道の外側に、もう一本の柱がある。柱の影が石畳に黒く伸び、その黒さが安全の印に見えた。
「行くぞ。俺が先に出る。動いたら着いて来い」
光が通過した。あさひが飛び出す。石畳を蹴る足音が短く鳴り、次の柱に身体を押し込んだ。
こよいは息を止めて待った。巾着の中で神々が、光の間隔に合わせて脈を打っている。神々も数えている。八秒。布の中で、小さな神が拍を刻んでいた。
光が通る。圧が抜ける。走る。
三本目の柱。四本目。五本目。
柱を渡るたびに、灯台の光が遠くなった。港の奥は灯台の照射範囲の端にあたり、光の強さが落ちている。圧も軽い。肩を押す力が薄くなり、呼吸が楽になった。
最後の柱を越えたとき、こよいは深く息を吐いた。灯台の光はまだ回転しているが、ここまでは届かない。
埠頭の奥に、古い桟橋が伸びていた。板が腐りかけ、海水が隙間から覗いている。桟橋の先に、港の本体——海図の集まる場所があるはずだった。
あさひが桟橋の板を踏んで確かめた。靴底で板の弾力を測り、体重をゆっくりかけていく。
「……持つ。ただし一人ずつだ」
久遠が目録を開いた。蒼光を少しだけ強め、桟橋の先を照らした。光の先に、暗い空間が広がっている。
「この先に、港の中枢がある。海図が集められている場所だ」
こよいは桟橋に最初の一歩を載せた。板が軋む。足の下で海水が揺れ、潮の匂いが鼻に届いた。板の隙間から覗く海面が、灯台の光を遠く反射して、ちらちらと白く光っていた。
灯台の光が、背後で一度だけ強く瞬いた。
まるで、三人が通り抜けたことに今さら気づいたように。
そして、影が立ち上がった。
桟橋の板の隙間から、埠頭の柱の根元から、黒い人型が滲み出す。数は十を超えた。灯台が呼んだのだ——気づいてしまった三人を、ここに留めるために。
「走れ!」
あさひの剣が布ごと振られ、革紐が千切れて宙を舞った。露わになった刃が、最初の影を裂く。影は音もなく散り、黒い滴が板に残った。二体目、三体目。あさひは足を止めず、斬りながら道を開いた。踏切のように行く手を塞いだ影の列を、最後は横薙ぎに払う。
こよいは写本を抱えて走り、久遠が背中を守った。おたまは——影たちの間を、素通りしていた。影は猫を掴めない。掴もうとした影の腕が、猫の身体を通り抜けて、空を切った。
桟橋を渡り切ると、影の軍勢は追ってこなかった。境界があるのか、役目の外なのか。あさひは肩で息をつき、刃に残った黒い滴を振り落とした。
「……こいつら、また出るぞ」
誰も否定しなかった。
そのとき、頭上の光が落ちた。灯台の瞬きが、ふつりと途絶える。軍勢を呼び出す役目を終えたのか、それとも、呼んだ相手が全て斬られたからか。光を失った灯台は、ただの黒い柱になって霧に沈んだ。
港の中枢は、もう目の前だった。




