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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第10章 波の端

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第313話 石段の背

挿絵(By みてみん)


石段(いしだん)の一段目に、足を置いた。


 ホームを離れた三人の足元に、(こけ)むした石が一段、また一段と続いている。

 幅は広く、大人が三人並んで歩けるほどだった。

 段の一つひとつが長い年月をかけて角を丸くしており、表面には雨水の流れた跡が細い溝となって残っている。(こけ)は濃い緑で、踏むと柔らかく沈み、石段(いしだん)全体が分厚い絨毯(じゅうたん)を敷いたようだった。


 こよいは最初の一段に足を置いた。

 靴底を通じて伝わるのは、冷たさではなかった。

 石が体温を持っている。

 名前たちが通った道の、最後の温もりだった。かつてここを歩いた無数の足が、石の中に体温を残していったのかもしれない。


 「(のぼ)るぞ」


 あさひが先頭に立った。

 大剣を肩に担ぎ直し、石段(いしだん)の先を見上げている。背中の剣の結晶(けっしょう)が、この場所の空気に反応して微かに振動していた。

 十段ほど先で(きり)()まれているが、段そのものは途切れていなかった。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を開いた。

 金色の筋が、上を指している。

 真っ直ぐに。

 迷いのない線だった。これまで揺らぐことのあった金色の筋が、ここでは一本の直線として天を指している。


 「近い」


 久遠(くおん)(つぶや)いた。


 「何が」


 「全部が」


 三人は(そろ)って石段(いしだん)(のぼ)り始めた。先頭は、いつものように、おたまだった。苔の段を、猫は音もなく跳ねていく。


 十段。

 二十段。

 三十段を過ぎたあたりで、(きり)(しつ)が変わった。


 乳白色だった(きり)が、薄い灰色になっている。

 向こう側に、何かの輪郭が見える。

 木だった。

 木が生えている。


 葉のある木だった。


 こよいは足を止めた。


 この旅で初めて見る、生きた木の葉だった。

 緑ではない。

 銀灰色の、薄く光を帯びた葉。

 風に揺れている。葉と葉が触れ合うたびに、硬い紙を(はじ)くような小さな音がした。


 風があった。肌が覚えている感覚が、一瞬で(よみがえ)った。


 顔に風が当たっている。

 (きり)の中には風がなかった。

 ずっとなかった。


 今、風がある。


 (ほお)()でていく空気には温度があった。冷たくも熱くもない、ただそこに在るだけの風。けれどその風は、経蔵(きょうぞう)の中の無風の空間や、忘却(ぼうきゃく)の海の停滞した空気とは決定的に違っていた。動いている。世界が、ここでは動いている。


 こよいの髪が揺れた。

 巾着(きんちゃく)(ひも)が揺れた。

 あさひの外套(がいとう)が音を立てた。


 「風だ」


 あさひが言った。

 言葉にする必要もないことだったが、あさひは言った。

 声に出して確かめるように。その声にはかすかな驚きが混じっていた。あさひが驚くのを、こよいはほとんど見たことがなかった。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を細めた。

 蒼光(そうこう)(きり)を透過し、石段(いしだん)の先を照らしている。光が木々の(みき)に当たり、樹皮の凹凸(おうとつ)が蒼く浮かび上がった。


 「あと十二段で、(きり)を抜ける」


 こよいは(のぼ)った。

 一段ごとに(きり)が薄くなる。

 一段ごとに空気が軽くなる。肺に入る空気の密度が変わっていくのが分かった。経蔵(きょうぞう)の周辺では、息をするたびに石と紙の粉が(のど)に張り付いた。ここでは、空気が柔らかい。吸い込むと胸の底まで届く。

 巾着(きんちゃく)が温かい。

 神々が穏やかに脈打っている。

 怖がっていない。

 急いでもいない。

 ただ、嬉しそうだった。


 最後の三段。


 (きり)が、頭の上に退いた。


 足元から胸のあたりまではまだ白い(もや)(ただよ)っているが、顔から上は——空が見えた。


 暗い空だった。深い藍色(あいいろ)が、端から端まで広がっている。

 星はない。

 だが名前の光が高い場所に浮かんでいる。

 凍結(とうけつ)されていない名前。

 星野(ほしの)井戸(いど)の上空で見たのと同じ光が、ここにもあった。七重の壁の内側を泳いでいた、あの自由な名前たちと同じ顔をした光。凍る必要も、隠れる必要もなく、ただ在るだけの名前が、空いっぱいに散っている。光は静かに(またた)き、風に揺れる木の葉と同じ速さで明滅している。

 墨の井戸で満たし直した三十七柱も、いつか、還る場所を見つけて、こんな空に昇るのだろうか。こよいはそう思い、思っただけで、胸の奥が温かくなった。


 こよいは石段(いしだん)最上段(さいじょうだん)に立った。


 目の前に、道が伸びていた。

 銀灰色の木が両側に並ぶ、細い道。

 (こけ)が地面を(おお)い、足を置けば沈むほど柔らかそうだった。道の中央に、誰かが歩いた跡のように(こけ)が薄くなっている場所があった。古い足跡だった。


 空気は湿っていて、土と木と水の匂いがする。

 生きている場所の匂いだった。


 あさひが隣に立ち、剣の(つか)に手を置いた。


 「来たな」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を閉じた。


 義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)が消え、久遠(くおん)は自分の目で道の先を見た。

 細い道が木々の間を抜け、緩やかに曲がりながら奥へと続いている。

 その先に何があるのか、ここからは見えない。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に当てた。

 神々の脈動が、自分の心臓の鼓動(こどう)と重なった。

 同じ速さ。

 同じ温度。


 石段(いしだん)の下では、(きり)がまだ白く渦巻(うずま)いている。

 振り返れば、そこには長い旅路の全てがある。海図の港の境も、忘却の海も、崩れた経蔵も、墨の井戸も。

 振り返らなかった。


 一歩を、踏み出した。


 (こけ)が靴底を受け止め、柔らかく沈んだ。

 銀灰色の葉が風に揺れて、小さな音を立てた。

 三人の(かげ)が、道の上に長く伸びた。

 こよいは、はっとした。影が——遅れていない。手を上げれば、影も同時に上がる。凍結の届かないこの土地では、世界はまだ、自分の記録に追い抜かれていない。描く速さが、生きる速さに追いついている。

 「ここは、まだ書けてるんだ」

 こよいの呟きに、久遠(くおん)が頷いた。おたまが、遅れない三つの影と、もともと遅れたことのない自分の影を連れて、道の先へ歩き出す。

 三人と一匹の影が、生きた土地の道に、まっすぐ伸びていた。

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