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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第10章 波の端

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312/344

第312話 指定席の謎

挿絵(By みてみん)


墨の井戸を後にした三人を、北行きの霧列車が待っていた。乗り込んで、しばらくして——こよいは、気づいた。


 座席には名前があった。


 こよいが最初に気づいたのは、肘掛けの内側だった。座って、腕を置いて、ふと視線を落としたときに見えた。木の肘掛けの側面に、小さな文字が彫り込まれていた。


 古い文字だった。経蔵の石柱に刻まれていたのと同じ書体。風化はしていなかった。木目の中に溶け込むように、丁寧に彫られている。彫った者の指先が見えるようだった。一画ずつ、木の繊維を()かないように、ゆっくりと。


 「……名前?」


 こよいは指でなぞった。三文字。読めなかった。古すぎる。だが文字であることは間違いなかった。指先の下で、彫りの溝が微かな引っ掛かりを返してくる。何百年も前に誰かが残した(くぼ)みが、まだ指先に形を伝えている。


 巾着(きんちゃく)が温かくなった。指先が文字に触れたままの手と、腰に結んだ巾着(きんちゃく)の間を、細い熱の筋が繋いでいた。神々が応えている。この名前を知っている。


 「あさひさんも」


 こよいは隣を見た。あさひは通路側の席に座っていた。肘掛(ひじか)けを確認している。


 彫りがあった。あさひの席にも。別の名前。四文字。こちらも古い書体で、読むことはできなかった。


 「知らねえ名前だ」


 あさひは指で彫りをなぞった。爪が溝に引っかかる深さ。刃物ではなく、硬い何かの先端で彫ったような跡だった。


 久遠(くおん)は向かい合わせの席に座っていた。


 目録(もくろく)(ひざ)に置いたまま、自分の肘掛(ひじか)けを見下ろしていた。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)肘掛(ひじか)けの木目を照らす。光が木の表面を()めるように動き、やがて止まった。


 久遠(くおん)の表情が変わった。


 「ない」


 「何が」


 「名前がない。俺の席だけ、空白だ」


 こよいは身を乗り出して久遠(くおん)肘掛(ひじか)けを見た。確かに何も彫られていなかった。木目だけが走っている。滑らかで、傷もない。他の二席には名前が刻まれているのに、久遠(くおん)の席だけが無銘(むめい)だった。まるで木が生まれたままの姿で、誰の手にも触れられていないように。

 そしてその無銘の席の背もたれの上で、おたまが丸くなっていた。名前を彫られたことのない席と、ほんとうの名前を誰も知らない猫。似合いの取り合わせのようにも、見えた。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)を強め、肘掛(ひじか)けの木を透かすように照らした。表面だけでなく、木の内側まで光が届いている。だが何も浮かばなかった。


 「彫った痕跡(こんせき)もない。削り直した形跡もない。最初から、何も刻まれていない」


 こよいは立ち上がった。


 通路を挟んだ向かいの席を(のぞ)いた。肘掛(ひじか)けの内側に、名前があった。二文字。こよいは次の席も見た。また名前があった。五文字。その次も。その次も。


 こよいは通路を歩き始めた。


 一列ずつ確かめていく。窓側の席、通路側の席。全ての肘掛(ひじか)けに名前が彫られていた。ひとつとして同じ名前はなかった。書体は古く、すべて読めなかったが、一文字のものから七文字のものまで、長さも形も様々だった。中には、彫りの溝に木の樹脂(じゅし)が染み出して琥珀色(こはくいろ)に固まっているものもあった。名前を刻まれた木が、傷口を(いや)すように、長い年月をかけて自分の樹液で溝を埋めていたのだ。


 車両の端まで歩いた。二十四席。全てに名前があった。


 次の車両への扉を開けた。連結部(れんけつぶ)の金属板を踏んで渡る。二両目の席にも、名前があった。こよいは三席だけ確認して、戻った。


 「全部の席にある」


 息が少し乱れていた。


 「この列車の全部の席に、名前が彫ってある」


 久遠(くおん)は自分の空白の肘掛(ひじか)けに(てのひら)を置いたまま、動かなかった。


 「これは——かつてこの席に座った者の名前だ」


 義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)が揺らいでいた。分析ではなく、感情の揺らぎだった。


 「凍結(とうけつ)の前、神々がまだ自由にこの世界を行き来していた頃。この列車に乗って、どこかへ向かった神たちの名前だ。座席が、乗客を覚えている」


 あさひは肘掛(ひじか)けの彫りを親指でなぞりながら、窓の外を見ていた。(きり)が流れている。列車は走り続けていた。車輪がレールを叩く律動(りつどう)が、床板から靴底を通じて身体に伝わってくる。


 「墓標(ぼひょう)か」


 あさひの声は硬くなかった。ただ確認しただけだった。


 「墓標(ぼひょう)ではない。記録だ」


 久遠(くおん)が答えた。


 「墓標(ぼひょう)は死者のためにある。これは——ここにいたことの(あかし)だ。この席に座って、窓の外を眺めて、どこかへ行こうとした。その事実だけが、木の中に残っている」


 こよいは自分の席に戻った。肘掛(ひじか)けの名前に、もう一度指を触れた。巾着(きんちゃく)が応えるように温かくなった。神々がこの名前を知っている。この席に座った神を、覚えている。


 「この人は……」


 こよいの声は小さかった。


 「ここに座って、どこに行きたかったんだろう」


 列車が揺れた。窓の外の(きり)が一瞬だけ薄くなった。その隙間(すきま)から、何かが見えた。


 石段(いしだん)だった。


 (きり)の中に、石の階段が上へ向かって伸びていた。幅は広く、段の一つひとつが(こけ)に覆われている。どこまで続いているのか分からなかった。十段ほど見えたところで、また(きり)()まれて消えた。


 「見えたか」


 あさひが窓に寄った。


 こよいも窓に(ひたい)を寄せた。もう見えなかった。(きり)が戻っている。けれど確かに見えた。石段(いしだん)。上へ向かう道。窓硝子(まどがらす)に額を押し当てると、硝子(ガラス)の冷たさの中に、外の湿った空気の重さが伝わってきた。


 久遠(くおん)は窓を見なかった。代わりに、空白の肘掛(ひじか)けに手を置いたまま、目を閉じていた。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)だけが、薄い(まぶた)の下で静かに脈打っている。


 「俺の席に名前がないのは、まだ誰も座っていないからだ」


 目を閉じたまま、久遠(くおん)が言った。


 「この席は、これから座る者のために空けてある」


 汽笛(きてき)が鳴った。


 長く、低く。列車の速度が落ち始めていた。窓の外の(きり)の流れが遅くなっていく。


 こよいは肘掛(ひじか)けの名前に(てのひら)を重ねた。木の温もりと、彫りの凹凸(おうとつ)と、神々の熱が混ざり合って、こよいの手の中でひとつになった。


 「着くよ」


 こよいは立ち上がった。巾着(きんちゃく)を握った。四枚目の切符(きっぷ)——帰りの分が、(ひも)に挟んだ場所で微かに揺れた。


 あさひが剣を肩に担ぎ直した。窓の外を一瞥(いちべつ)し、(きり)の向こうに消えた石段(いしだん)の方角を身体で覚えた。


 久遠(くおん)は空白の肘掛(ひじか)けから手を離し、目録(もくろく)を懐にしまった。立ち上がる直前、肘掛(ひじか)けの表面を指先でひと()でした。いつか誰かの名前が刻まれるその場所を、確かめるように。


 列車が止まった。


 扉が開く音がした。(きり)が車内に流れ込んできた。冷たくはなかった。湿っていた。石と(こけ)の匂いがした。


 三人は立ち上がり、扉に向かった。


 こよいは最後に一度だけ振り返った。自分が座っていた席の肘掛(ひじか)けに彫られた、読めない名前。その神がかつて座り、窓の外を眺め、どこかへ向かおうとした席。


 今はこよいが座った席。


 名前のない切符(きっぷ)を持って、名前のある席に座って、名前を探しに行く旅。


 列車が完全に止まり、扉が開いた。湿った風と、石と(こけ)の匂い。三人と一匹は、終点のホームに降り立った。

 汽笛が一声、別れのように鳴った。振り返ると、霧列車(きりれっしゃ)はもう、霧に溶けかけていた。


 「列車はまた来る」


 久遠(くおん)が静かに言った。


 「名前を運ぶ限り、線路は消えない」


 (きり)の向こうに、石段(いしだん)が待っていた。

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