第031話 軽くなった巾着
巾着が、軽くなっていた。祠の神がいなくなったから。でも、まだ温かい。水路の神が、そこにいる。
こよいは、神の座を後にした。
振り返ると、透明な祠が朝日に輝いている。もう、声は聞こえない。
「……行こう」
こよいは、前を向いた。
「……水路を、届けに」
「……うん」
水路の神の声が、小さく響いた。
一柱だけになった声。
◇
道を歩いた。
第二境界の向こう側。
ここからは、深部への道。
木々がまばらになっている。
空が見える。青い空。でも、空気は冷たい。
「……水路」
こよいは、歩きながら話しかけた。
「……どのくらいで、着くの?」
「……わからない」
水路の神の声。
「……でも、このさき」
「……ぼくのばしょが、ある」
第三境界。
水路の神を届ける場所。
そこを目指して、歩く。
◇
しばらく歩くと、道が分かれた。
三叉路。
古い道標が立っている。
文字は消えかけて、読めない。
右の道は、明るい。
木々が開けていて、先が見える。
左の道は、暗い。
木々が密集していて、狭い。
「……どっち?」
こよいは聞いた。
「……ひだり」
水路の神の声。
迷いのない声。
「……暗いね」
「……でも、こっち」
「……ぼくのばしょは、こっち」
こよいは、左の道を見た。
暗くて、狭くて、怖い。でも、水路の神がそう言うなら。
足先が暗闇の中で少し震えた。右の道へ戻れば、第三境界に着けない。
「……行こう」
こよいは、左の道に足を踏み入れた。
◇
暗い森だった。
木々が高く、空を覆っている。
木漏れ日だけが、ところどころに差し込む。でも、薄暗い。
樹皮が黒ずんでいる。苔ではなく、木そのものの色が暗い。幹に触れると、ひんやりとした湿気が手のひらに伝わった。この森は、深部に近い場所の空気を吸って育った木々で出来ているのだ。
足元に、霧が漂っている。
地面が見えにくい。
一歩ずつ、慎重に歩いた。
袖口を濡らす霧の冷たさが、季節を忘れさせていた。
こよいの耳に届くのは、自分の呼吸の音だけだった。吸い込んだ空気が喉の奥で冷たく沈んだ。この森の静けさは、里の夜とは違う。音そのものが吸い込まれてしまうような、底なしの空白だ。
鳥の声が、聞こえない。
虫の音も、聞こえない。
ただ、自分の足音だけが響いている。
里の長の言葉が、頭をよぎった。
「境を越えてくる奴らがいる」
「測る者たちだ。何かが変わった」
「油断するな」
こよいは、巾着を握った。
一人じゃない。水路がいる。
その温もりだけが、震える足を支えていた。
巾着の中で、水路の神がかすかに身じろぎしたのが分かった。怖がっている。でも、一緒にいてくれている。それだけで、足を前に出す力が湧いた。
◇
歩き続けた。
道は、どんどん狭くなっていく。
木々の間を、すり抜けるように進む。
枝が、服を引っかける。
外そうと腕を引っ張ると、背後から湿った風が首筋を撫でた。誰の気配でもない。ただの風だ。分かっているのに、背筋を伝う冷たさに、鼓動が跳ねた。
巾着が、少し冷たくなった。
「……水路?」
こよいは、胸元を押さえた。
「……きをつけて」
水路の神の声が、震えていた。
「……なにか、いる」
何かがいる。
こよいは、足を止めた。
周りを見回す。
暗い。
霧が濃くなっている。
何も見えない。
「……どこ?」
「……わからない」
「……でも、いる」
こよいは、息を潜めた。
耳を澄ませる。
静寂。
何も聞こえない。でも、確かに何かがいる。
水路の神がそう言っている。
神が言うなら、間違いない。
◇
ゆっくりと、歩き始めた。
音を立てないように。
息を殺して。
一歩ずつ、慎重に。
枝が折れるような音を、待っていた。
「……にげて」
水路の神の声が、また震えた。
「……まえに、いる」
前に、いる。
こよいは、足を止めた。
前方を、見つめた。
暗い。
霧が、濃い。でも、何かが見える。
光。
遠くで、何かが光っている。
白い光。
点滅している。
「……あれ、何?」
こよいは、目を細めた。
光が、一つじゃない。
二つ、三つ、四つ。
どんどん増えていく。
「……」
水路の神が、黙り込んだ。
「……水路?」
「……」
巾着が、凍りついたように冷たくなった。
「……かんそくしゃ」
水路の神の声が、かすれた。
「……たくさん、いる」
◇
観測者。
こよいは、その光を見つめた。
遠くで、点滅している。
十以上。いや、もっとある。
無数の光。
全部、観測者。
「……本隊」
こよいは、呟いた。
長が警告していた、境を越えてくる者たち。しかも、これほどの数。
ここにいた。
進む道の、先に。
「……にげる?」
水路の神の声。
「……もどる?」
こよいは、考えた。
戻れば、安全かもしれない。でも、水路の神を届けられない。
下を向けば、足元の霧が自分の影を飲み込んでいる。でも、胸元の温もりだけは確かだ。
引き返せば、右の道で見た明るさに戻れる。だが、この先でしか届けられないのだと、足裏が覚えていた。
しおりの犠牲が、頭をよぎった。
祠との約束が、胸に響いた。
「……行く」
こよいは、言った。
「……逃げない」
「……でも」
「……水路を、届ける」
こよいは、巾着を握りしめた。
「……約束したから」
沈黙。
それから、水路の神の声が聞こえた。
「……いっしょに、いく」
「……さいごまで」
「……うん」
こよいは、頷いた。
「……一緒に、行こう」
◇
光が、遠くで点滅している。
無数の光。観測者の光。
こよいは、その光を見つめた。
怖い。でも、進む。
足の裏で地面の冷たさを確かめながら、一歩ずつ距離を縮める。
水路の神を届ける。
それが、今の約束だ。
それで、終わりじゃない。
まだ、旅は続く。
こよいは、一歩を踏み出した。
暗い森の中を。
光に向かって。
遠くに、無数の光。
観測者の本隊が、そこにいる。




