第030話 水路の神
歩いた。
ただ、歩いた。
止まったら、しおりの犠牲が無駄になる。
朝日が、背中を押していた。
東から差す光。温かい光。
こよいは、その光を背負って、前に進んだ。
足が痛い。体中が痛い。
昨日から、ずっと走って、歩いて、泣いて。でも、止まれない。
巾着が、胸元で揺れている。
祠の神と空き地の神が、そこにいる。
二柱の神を、届けなければいけない。
◇
道が、開けてきた。
森を抜け、視界が広がった。
遠くに、何かが見える。
「……」
こよいは、目を細めた。
岩。
二つの大きな岩が、寄り添うように立っている。
まるで、門のように。
胸元の巾着が、僅かに脈打った。二柱の神が、反応している。
「……ここだ」
祠の神の声が聞こえた。
「……だいにきょうかい」
第二境界。
祠を届ける場所。
こよいの足が、速くなった。
◇
近づくと、岩の大きさが分かった。
高さは五メートルほど。
古い岩で、苔が生えている。
二つの岩の間に、道がある。
狭い道。一人がやっと通れるくらい。
「……とおって」
空き地の神の声。
「……むこうに、あるよ」
こよいは、岩の間を通った。
ひんやりとした空気。
光が、向こうから差し込んでいる。
門を抜けた。
そこに、広場があった。
◇
円形の広場だった。
直径は二十メートルほど。
周りを、古い木々が囲んでいる。
そして、中央に、石があった。
平らな石。高さは腰ほど。
表面に、文様が刻まれている。
渦巻き。水の流れのような渦巻き。
「……ここ」
祠の神の声が震えていた。
「……ここが、ぼくのばしょ」
神の座。
祠の神が帰る場所。
こよいは、石の前に立った。
◇
「……祠」
こよいは、巾着に話しかけた。
「……着いたよ」
「……うん」
祠の神の声。小さくて、震えている。
「……こわい?」
「……すこしだけ」
こよいは、巾着を胸に押し当てた。
「……大丈夫。ここが、祠の場所だから」
沈黙。
それから、祠の神の声が聞こえた。
「……ありがとう、こよい」
「……みつけて、くれて」
「……つれてきて、くれて」
涙が、こよいの頬を伝った。
悲しいのではない。
嬉しいのでもない。
何か、もっと深い感情。
「……ぼくも、ありがとう」
こよいは、かすれた声で言った。
「……一緒に、ここまで来れて」
◇
巾着を、胸の前で開いた。
光が、溢れ出した。
温かい光。柔らかい光。
祠の神が、そこから出てきた。
「……」
こよいは、息を呑んだ。
光の球が、浮かんでいる。
小さくて、でも、確かにそこにある。
祠の神。今まで声だけだった存在が、初めて目に見えた。
光が、ゆっくりと動いた。
こよいの手を離れ、石の上へ。
文様の中心に、降りていく。
「……すいろ」
祠の神の声が聞こえた。
「……え?」
空き地の神が、驚いたように聞き返した。
「……きみの、なまえ」
「……すいろ」
「……こよいを、おねがい」
「……うん」
空き地の神の声が答えた。震えている。
名前を呼ばれた喜びと、別れの悲しみが混ざっている。
「……さいごまで、いっしょにいる」
「……こよい」
祠の神の声が、最後に響いた。
「……さいごまで、いってね」
「……うん」
こよいは、涙を拭いた。
「……約束する」
光が、形を変え始めた。
球から、別の形へ。
小さな祠の形。透明で、でも確かに見える。
祠の神が、帰ってきた。
本来の場所に、本来の姿で。
◇
しばらく、動けなかった。
石の上の祠を、見つめていた。
透明な祠。
小さくて、でも、美しい。
ここが、この神の居場所。
文様の渦が、祠の輪郭と重なって、微かに明滅している。
「……届けた」
こよいは、呟いた。
祠の神の声は、もう聞こえない。でも、そこにいる。
石の上で、静かに佇んでいる。
「……ありがとう」
こよいは、もう一度言った。
「……しおりさんも、ありがとう」
しおりの犠牲があったから、ここまで来れた。
しおりが逃がしてくれたから、祠を届けられた。
その犠牲を、無駄にしなかった。
涙が、また流れた。でも、今度は笑っていた。
◇
巾着を、握りしめた。
軽くなっている。祠がいなくなったから。でも、まだ温かい。水路の神が、そこにいるから。
「……空き地の神」
こよいは、言い直した。
「……ううん。水路」
水路。
それが、彼の本当の名前。
かつて、あの町に水路があったのだろうか。
清らかな水が流れ、人々がそこで洗い物をし、子供たちが遊んだ場所。
彼はそこを守り、人々と共に生きていたのかもしれない。
今はもう、埋め立てられて、空き地になってしまったけれど。
名前だけが、記憶の底に残っていたのだ。
「……うん」
水路の神の声。一柱だけになった声。
「……次は、水路の番だね」
「……うん」
沈黙。
それから、水路の神の声が聞こえた。
「……いこう」
「……だいさんきょうかいへ」
第三境界。
空き地の神を届ける場所。
まだ、旅は終わっていない。
◇
こよいは、石の前を離れた。
一歩、二歩。
広場の出口へ向かう。
振り返った。
石の上の祠が、朝日を浴びている。
透明な体が、光を通して輝いている。
「……さよなら」
こよいは、小さく手を振った。
返事はない。でも、分かる気がした。
祠も、さよならと言っている。
前を向いた。
岩の門を、逆方向から見る。
あの向こうに、次の道がある。
「……行こう」
こよいは、巾着を握りしめた。
「……水路を、届けに」
「……うん」
水路の神の声が、小さく響いた。
一歩を、踏み出した。
届けた。
一柱目の神を、届けた。でも、まだ終わっていない。
水路の神がいる。
水路の神を届けなければいけない。
旅は、続く。
こよいは、朝の光の中を歩き出した。
水路の神と一緒に。
まだ、一柱残っている。
その手応えを確かめるように、こよいは次の境界へと歩いていった。




