第029話 悲しみを越えて
走った。
ただ、走った。
後ろを振り返れなかった。
しおりの顔が、頭から離れない。
最後の笑顔。最後の言葉。
「さよなら、こよい」
涙で、前が見えない。
足がもつれる。何度も転びそうになる。
それでも、止まれなかった。
観測者の光が、後ろで点滅している。
追ってきている。まだ、追ってきている。
「……にげろ」
祠の神の声。
「……もっと、はやく」
空き地の神の声。
走った。
夜になっても、走った。
喉が焼けるように乾いて、息を吸うたびに肺が痛い。
月が出ていた。でも、見る余裕はなかった。
◇
どれくらい走ったのか、分からない。
時間の感覚がない。
気がつくと、森の中にいた。
深い森。木々が密集している。
観測者の光は、もう見えない。
足が、止まった。もう、動けなかった。
大きな木の根元に、倒れ込んだ。
体が、言うことを聞かない。
息が、上がっている。
地面が冷たい。落ち葉の湿った匂いが、顔に近い。土と、腐葉土と、夜露の匂い。体中が汗で濡れていて、冷えた風が吹くたびに震えが走った。
「……」
静寂。
虫の音だけが、かすかに聞こえる。
こよいは、そのまま動けなかった。
体を丸めて、木の根に寄りかかった。
腕に強張りを感じた。枝を払いながら来たのだろう、ひっかいた跡が数本、腕の肘から前腕にかけて走っている。血が出ていたかは確認できなかった。胸が上下に荒く動くたび、肺の奥まで冷たい夜気が吸い込まれる。
観測者は、いつまで追ってくるのか。
あの点滅は、もう遠くで見えなくなっていたけれど、いつまた現れるか分からない。
ここに留まるのは、危険かもしれない。でも、今は動けなかった。
◇
泣いた。
声を殺して、泣いた。
嗚咽が漏れる。止められない。
「……しおりさん」
名前を呼んでも、返事はない。もう、返事はない。
「……ごめん」
声が震えていた。
「……ごめんなさい……」
ぼくのせいだ。
ぼくが動けなかったから。
しおりが、庇ってくれた。
代わりに、固定された。
「……ぼくのせいで……」
涙が、止まらなかった。
頬を伝って、服に染みていく。
体が震えている。寒いのか、悲しいのか、分からない。
しおりの顔が、浮かんでくる。
焚き火のそばで、淡々と話してくれた顔。帳面を撫でる、細い指。
笑っていた顔。「偉い」と言ってくれた顔。
最後に見た顔。固定されていく顔。
「……さよなら、こよい」
その言葉が、耳の奥で響き続けている。
◇
どれくらい泣いたのか、分からない。
涙が、枯れてきた。でも、悲しみは消えない。
巾着が、少しだけ温かくなった。
冷たかったはずなのに。
「……ないて、いいよ」
祠の神の声が、聞こえた。
小さくて、優しい声。
「……かなしい、よね」
空き地の神の声も。
こよいは、巾着を握りしめた。
神々が、そこにいる。
一緒に、ここまで来た神々が。
「……しおりさんが」
こよいは、かすれた声で言った。
「……ぼくを、庇って……」
「……うん」
祠の神の声。
「……しってる」
「……しおりは」
空き地の神の声が続いた。
「……きみを、まもりたかった」
守りたかった。
その言葉が、胸に刺さった。
「……なんで」
こよいは聞いた。
「……なんで、ぼくを……」
「……きみに、いきてほしかった」
祠の神の声。
「……とどけて、ほしかった」
「……かみさまを」
神様を届ける。
それが、こよいの役目。
しおりは、それを知っていた。
だから、守ってくれた。
「……でも」
こよいの声が震えた。
「……ぼくが、逃げたから……」
「……しおりさんは……」
「……しおりが、にげろって、いった」
空き地の神の声。
「……きみが、にげたんじゃない」
「……しおりが、にがしたんだ」
しおりが、逃がした。
こよいが逃げたんじゃない。
しおりが、命をかけて、逃がしてくれた。
こよいは、頭を抱えるようにして、地面に押し付けた。
指の間から涙が落ちる。
しおりが自分で逃げろと言った。
届けろと言った。
それは——こよいが動けなくても、しおりはこよいを守ると決めていたということだ。
◇
涙が、また溢れてきた。でも、さっきとは違う涙だった。
「……ぼく、どうすればいい?」
こよいは、巾着に聞いた。
「……しおりさんのために、何ができる?」
沈黙。
それから、祠の神の声が聞こえた。
「……あるくんだ」
歩く。
「……とまったら」
空き地の神の声が続いた。
「……しおりの、ぎせいが」
「……むだに、なる」
無駄になる。
しおりの犠牲が、無駄になる。
こよいは、目を閉じた。
しおりの言葉が、蘇ってくる。
「あなたが、届けなきゃいけないんでしょ。神様を」
そうだ。
こよいには、やることがある。
祠の神と空き地の神を、届けなければいけない。
しおりが命をかけて守ってくれた、この命で。
「……止まらない」
こよいは、呟いた。
「……止まったら、しおりの犠牲が……」
無駄になる。
それだけは、許せない。
◇
空が、白み始めていた。
夜明けが、近い。
こよいは、ゆっくりと体を起こした。
足が、痛い。体中が、痛い。でも、動ける。
袖口で頬の涙を拭い、靴底についた泥を木の根で落とした。
膝が笑うのを押さえながら、立体的に周囲を見回す。森の奥の方角に、木々の隙間から薄い光が滲んでいた。あちらへ向かえば、道が開けるかもしれない。
巾着を、握りしめた。
温かい。神々が、そこにいる。
「……行こう」
こよいは、言った。
「……第二境界へ」
「……うん」
祠の神の声。
「……いっしょに」
空き地の神の声。
立ち上がった。
足が震えている。でも、立てる。
一歩、踏み出した。
まだ、涙の跡が頬に残っている。でも、前を向いた。
「……しおりさん」
こよいは、小さく呟いた。
「……届けるから。必ず」
その声は、まだかすれていた。でも、自分の言葉だ。
夜明けの光が、木々の間から差し込んできた。
白い光。冷たくない、温かい光。
昨夜の恐怖とは違う、静かな朝だった。
こよいは、歩き出した。
悲しみは、消えない。でも、止まらない。
止まったら、しおりの犠牲が無駄になる。
その言葉を胸に刻んで、こよいは歩いた。




