第028話 しおりの最期
谷を出た。
霧が晴れ、視界が広がった。
午後の日差しが、眩しい。
こよいは、深く息を吸った。
名無しの谷を越えた。生きている。
「……でた」
祠の神の声。
「……よかった」
空き地の神の声。
巾着が、少しだけ温かくなった。
神々も、安堵している。
道を歩き始めた。
第二境界への道。まだ遠いが、方向は分かっている。
一歩ずつ、進めばいい。
「こよい」
声がした。
前方から。
聞き覚えのある声。
以前、旅の途中で一度だけ名乗った、ぼくの名前。
こよいは、顔を上げた。
しおりが、立っていた。
◇
「しおりさん……?」
こよいは、驚きで声が裏返った。
信じられなかった。
ここは境の向こう側だ。日常から切り離された世界だ。
どうして、彼女がここにいるのか。
どうやって、霧原町からここまで来られたのか。
「どうして……」
しおりは、少し疲れた顔をしていた。でも、笑っている。
「よかった」
しおりが、近づいてきた。
「無事だったんだね。谷を越えられたんだね」
「……どうして、ここに」
こよいは、後ずさりしそうになった。
本物だろうか。
名無しの谷が見せる、幻ではないだろうか。
「迎えに来たの」
しおりは、こよいの前に立った。
その体には、確かな重みがあった。影もあった。
幻ではない。
「あなたが谷を越えるのを、待っていた」
こよいは、言葉が出なかった。
違和感は消えない。
けれど、目の前にしおりがいる。迎えに来てくれた。
独りじゃなかった。
「……ありがとう」
声が震えた。
「……来てくれて」
「当たり前でしょ」
しおりは、笑った。
「一緒に行こう。第二境界へ」
差し出された手。
こよいは、その手をすぐには握れなかった。
この人は、本当に味方なのだろうか。
観測者と同じ「記録する人」だったはずだ。
それに、どうやってここまで来たのかも、分からない。
巾着を、そっと撫でた。
神々の様子を伺う。
「……どう?」
心の中で聞いた。
「……わからない」
祠の神の声。
「……でも、わるい気配は、しない」
空き地の神の声。
神々も、警戒はしているが、拒絶はしていない。
こよいは、しおりの目を見た。
そこには、かつて霧原町で見たときと同じ、静かで、少し悲しげな色が宿っていた。
独りで歩くのは、もう限界だったのかもしれない。
誰かに頼りたかった。
「……うん」
こよいは、小さく頷いた。
そして、差し出された手を握った。
それは確かに、人間の温かさだった。
「……行く」
◇
二人で、道を歩いた。
しおりが前を歩き、こよいがついていく。
「谷は、どうだった?」
しおりが聞いた。
「……怖かった」
こよいは、正直に答えた。
「……名前が、溶けて。自分が誰か、分からなくなりそうで」
「でも、越えられた」
「……うん。名乗らなかった」
「偉い」
しおりが、振り返って笑った。
「あなたなら、できると思っていた」
巾着が、温かい。
神々も、穏やかにしている。
しおりと一緒にいると、安心する。
「第二境界は、もう近いの?」
「あと少し。今日中には着けるよ」
「……よかった」
こよいは、少しだけ緊張が解けた。もう少し。もう少しで、祠の神と空き地の神を届けられる。
◇
夕日が、空を染め始めた。
赤い光が、道を照らしている。
その時だった。
巾着が、凍りついた。
「っ」
こよいは、足を止めた。
胸元が冷たい。氷のように冷たい。
「……きた」
祠の神の声が、震えていた。
「……かんそくしゃ」
観測者。
しおりも、足を止めた。
顔色が、変わっている。
「……こよい」
しおりの声が、低くなった。
「……逃げて」
「え」
「今すぐ、逃げて!」
しおりが叫んだ瞬間、光が見えた。
前方。道の先。
白い光が、点滅している。
一つ。二つ。三つ。
増えていく。
「測定対象を確認」
声が響いた。
無機質な声。機械のような声。
「固定を開始する」
◇
観測者が、近づいてくる。
光が、点滅しながら、近づいてくる。
三体。いや、四体。
こよいは、動けなかった。
足が、震えて動かない。
巾着が、凍りついたように冷たい。
「……にげろ」
祠の神の声。
「……こよい、にげろ」
空き地の神の声。
分かっている。逃げないといけない。でも、足が動かない。
「こよい!」
しおりが、叫んだ。
そして、こよいの前に立った。
「しおりさん」
「走って!」
しおりが、こよいを押した。
「今すぐ、走って!」
「でも、しおりさんは」
「私のことはいい!」
しおりの目が、真っ直ぐにこよいを見ていた。
「あなたが、届けなきゃいけないんでしょ。神様を」
光が、すぐそこまで来ている。
観測者の声が響く。
「対象を特定。固定を実行する」
「走って、こよい!」
しおりが、もう一度叫んだ。
こよいは、一歩後ろに下がった。でも、走れない。しおりを置いていけない。
「だめ、しおりさん、一緒に」
「間に合わない!」
光が、しおりに向かった。
◇
しおりの体が、光に包まれた。
白い光。冷たい光。
「っ……」
しおりが、声を詰まらせた。
体が、動かなくなっていく。
足が、固まっていく。
腕が、固まっていく。
「しおりさん!」
こよいは叫んだ。
「しおりさん、だめ!」
助けようと、手を伸ばした。
「……だめ」
しおりの声が、かすれていた。
「……触っちゃ、だめ……」
「……あなたまで、固定される……」
しおりの体が、透明になっていく。
輪郭がぼやけていく。
声が、遠くなっていく。
「……こよい」
しおりが、最後の力を振り絞って言った。
「……走って……」
「……届けて……神様を……」
涙が、こよいの頬を伝った。
「しおりさん、待って、待って」
「……大丈夫……」
しおりの声が、もう、ほとんど聞こえない。
「……私は……消えないから……」
「……固定されるだけ……」
しおりの目が、こよいを見ていた。
優しい目。悲しい目。
「……さよなら」
しおりの唇が、動いた。
「……さよなら、こよい」
◇
しおりの体が、完全に固定された。
動かない。声も出ない。でも、そこにいる。石像のように、そこにいる。
「しおりさん……」
こよいは、膝から崩れ落ちそうになった。
「……にげろ」
祠の神の声が、強く響いた。
「……いま、にげないと」
「……こよいも、つかまる」
観測者の光が、こよいに向かっている。
一つ、二つ。
「対象を追跡。固定を継続する」
「……にげろ!」
空き地の神の声が、叫んだ。
こよいは、走った。
泣きながら、走った。
後ろを振り返れなかった。
しおりを、置いていく。
固定されたしおりを、置いていく。
足が、もつれる。
涙で、前が見えない。
それでも、走った。
「……ごめん」
こよいは、走りながら呟いた。
「……ごめん、しおりさん」
後ろで、観測者の光が追ってくる。
点滅が、近づいてくる。でも、走った。
しおりが、逃げろと言った。
届けろと言った。
だから、走る。
泣きながら、走る。
「さよなら、こよい」
しおりの最後の言葉が、耳の奥で響いていた。




