第027話 空き地の記憶
休息を終えて、谷を登り始めた。
足元の土が湿っている。滑りやすい。
一歩ずつ、慎重に足を運ぶ。
霧が、少しずつ薄くなっている。
さっきまで十メートルだった視界が、十五メートルになった。
上を見上げると、うっすらと空の色が見える。
「……出口、近い?」
こよいは聞いた。
「……うん」
祠の神の声。
「……もうすこし、のぼれば」
登り続けた。
斜面は急ではないが、足が疲れている。
昨日から、ずっと歩き続けている。
「……空き地」
こよいは、歩きながら話しかけた。
「……祠は、さっき話してくれたよね」
「……うん」
「……空き地も、話してくれる?」
「……ぼくの、こと?」
「……うん。聞きたい。どんな場所だったの」
沈黙。
巾着が、少しだけ重くなった気がした。
空き地の神が、何かを考えている。
「……いい、よ」
空き地の神の声が、小さく聞こえた。
「……むかし、のこと」
◇
「……むかしは、まもられてた」
空き地の神の声が、ゆっくりと始まった。
こよいは、足を止めた。岩に手をついて、聞いた。
「……ちいさな、ほこら」
「……まちの、すみに、あった」
こよいは、目を閉じた。
空き地の神の言葉が、映像になって浮かんでくる。
小さな祠。
町の角、路地の奥にひっそりと建っている。
苔むした屋根。古い石段。でも、きれいに掃除されている。
「……まいあさ、だれかが、そうじ、してくれた」
空き地の神の声が続いた。
「……おはなを、そなえてくれた」
「……てを、あわせてくれた」
祀られていた。
小さな神だけれど、人々に大切にされていた。
「……うれしかった」
空き地の神の声に、懐かしさがあった。
「……まいにち、だれかが、きてくれた」
「……ひとりじゃ、なかった」
「……良かったんだね」
こよいは言った。
「……うん」
空き地の神の声。
「……とても」
◇
「……でも」
空き地の神の声が、変わった。
少しずつ、冷たくなっていく。
こよいは、また歩き始めた。
ゆっくりと、登りながら、聞いた。
「……まちが、かわった」
町が変わった。
こよいは、その言葉に少しだけ体が強張った。
「……ふるい、いえが、こわされた」
空き地の神の声が続いた。
「……あたらしい、みちが、できた」
再開発。
古い町並みが壊され、新しい建物が建つ。
「……さいしょは、だいじょうぶだった」
空き地の神の声。
「……ほこらは、のこしてくれた」
「……まわりが、かわっても」
こよいは、少しほっとした。
最初は、残してもらえたのだ。
「……でも?」
こよいは聞いた。
「……うん」
空き地の神の声。
「……だんだん」
◇
「……でも」
空き地の神の声が、また変わった。
今度は、もっと暗い。
巾着が、冷たくなっていく。
空き地の神の感情が、伝わってくる。
「……そうじ、するひとが、いなくなった」
掃除する人がいなくなった。
人が老いてしまったのだろうか。引っ越しだろうか。
祠の世話をする人が、いなくなった。
「……それでも、まってた」
空き地の神の声。
「……だれか、くるって」
「……また、そうじ、してくれるって」
こよいは、胸が痛くなった。
待っていたのだ。
誰かが来てくれることを、信じて。
「……でも、あるひ」
空き地の神の声が、震えた。
「……ほこらが、こわされた」
壊された。
その言葉が、重く響いた。
「……じゃまだって」
空き地の神の声が続いた。
「……あぶないって」
「……だれも、いらないって」
老朽化した祠。
危険だから、撤去する。
合理的な判断。でも、そこには神がいた。
「……それで」
空き地の神の声が、かすれた。
「……なにも、なくなった」
◇
「……何も?」
こよいは聞いた。
「……ほこらが、なくなって」
空き地の神の声。
「……あとは、ただの、あきち」
「……だれも、こない、ばしょ」
空き地になった。
祠があった場所が、ただの空き地に。
「……くさが、はえて」
空き地の神の声が震えていた。
「……ごみが、すてられて」
「……だれも、みむきも、しない」
こよいは、足を止めた。
空き地の神の悲しみが、巾着を通して伝わってくる。
忘れられた場所。見捨てられた場所。
「……なまえも、わすれられた」
空き地の神の声。
「……なにの、かみだったか」
「……だれも、しらない」
「……ぼくも、わすれた」
名前を忘れた。
自分が何の神だったかも、分からなくなった。
残ったのは、ただ「空き地にいる何か」だけ。
「……なんねんも」
空き地の神の声が、小さくなった。
「……あそこで、まってた」
「……だれか、みつけてくれるって」
「……また、まつってくれるって」
祠と同じだ。
何年も、何十年も、待っていた。
誰かが来てくれることを信じて。
「……でも、だれも、こなかった」
◇
こよいは、巾着を握りしめた。
冷たい。空き地の神の悲しみが、伝わってくる。
「……それで、ぼくが来た?」
こよいは聞いた。
「……うん」
空き地の神の声。
「……きみが、みつけてくれた」
こよいは、自分が空き地を訪れた時のことを思い出した。
板塀で囲まれた、古い空き地。
草の生えない、丸い痕。
そこに、何かがいた。
「……うれしかった」
空き地の神の声。
「……やっと、でられるって」
「……また、だれかと、いられるって」
「……今は、寂しくない?」
こよいは聞いた。
「……うん」
空き地の神の声が、少しだけ明るくなった。
「……きみと、いっしょ」
「……ほこらも、いる」
「……ひとりじゃ、ない」
こよいは、小さく笑った。
そうだ。今、空き地の神はこよいと一緒に旅をしている。
巾着の中は狭いかもしれない。でも、仲間がいる。
「……でも」
空き地の神の声が、また小さくなった。
「……わわすれられない」
「……何を?」
「……あの、さびしさ」
空き地の神の声が震えた。
「……だれも、こなかった」
「……なんねんも」
「……あの、さびしさ」
沈黙。
霧が、ゆっくりと流れている。
視界が、もっと開けてきた。空が、はっきりと見える。
「……ただ」
空き地の神の声が、かすれた。
「……みていてほしかった」
「……わすれないでほしかった」
「……そこにいるって、しっていてほしかった」
その言葉が、胸に突き刺さった。
ただ、覚えていてほしかった。
それだけの、シンプルな願い。
それすら、叶えられなかった。
こよいは、巾着を胸に抱きしめた。
冷たい。でも、そこに空き地の神がいる。
「……ごめんね」
こよいは、小さく言った。
「……人間が、忘れてしまった」
「……きみは、ちがうよ」
空き地の神の声。
「……きみは、みつけてくれた」
「……つれだして、くれた」
「……うん」
こよいは、涙を堪えた。
「……忘れないよ。ずっと」
言った瞬間、胸がちくりと痛んだ。
忘れない。でも、いつかは手放さなければならない。
届けるということは、別れるということだ。
この約束は、嘘にはならないだろうか。
そんな不安が、胸の奥で渦を巻いた。
「……うん」
空き地の神の声が、少しだけ温かくなった。
「……いっしょに」
巾着が、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。




