第026話 谷の幻影
影が、こちらを見ている。
霧の向こうで、人の形をした何かが、じっとこちらを見ている。
「……お前は、誰だ」
その問いが、もう一度響いた。
低い声。威圧的な声。でも、敵意は……感じない。
こよいは、唇を噛んだ。
名乗れない。名乗ってはいけない。
ここで名乗れば、記録される。固定される。
巾着が、氷のように冷たい。
神々が震えている。でも、声を上げない。
こよいと一緒に、息を殺している。
沈黙が、続いた。
霧が、ゆっくりと流れている。
時間が、止まったように長い。
「……名乗らぬか」
影の声が、変わった。
威圧が、消えている。
こよいは、何も言わなかった。
ただ、巾着を握りしめていた。
影が、一歩後ろに下がった。
距離が、開いていく。
「……名を持たぬ者は、通れ」
その言葉に、こよいは目を見開いた。
通れ?
「……名乗れば、ここに留められる」
影の声が、淡々と続いた。
「……名を持たぬまま通る者だけが、谷を越えられる」
こよいは、ようやく理解した。
これは、試験だったのだ。
名乗るかどうかの、試験。
「……あなたは」
こよいは、小さく聞いた。
「……何者なの」
「……境を守る者だ」
影は、それだけ答えた。
「……名は、ない。ここにいる限り、名を持つことはできない」
境を守る者。
名無しの谷の、番人。
「……行け」
影が、道を開けた。
「……谷底を越えれば、出口がある」
こよいは、深く頭を下げた。
何と言えばいいか、分からなかった。でも、感謝の気持ちだけは、伝えたかった。
「……ありがとう」
影は、何も言わなかった。
霧の中で、ゆっくりと薄れていく。
やがて、完全に見えなくなった。
◇
谷底に、小さな広場があった。
岩が点在している。苔むした古い岩。
霧は、ここでは少し薄い。視界が、十メートルほどある。
こよいは、岩に腰を下ろした。
足が、震えている。緊張が、ようやく解けていく。
「……こわかった」
声が、かすれていた。
「……本当に、こわかった」
「……うん」
祠の神の声。
「……ぼくたちも」
空き地の神の声。
巾着が、少しずつ温かくなっていく。
神々も、安堵している。
こよいは、竹筒から水を飲んだ。
冷たい水が、喉を潤していく。
生きている。まだ、生きている。
しばらく、じっとしていた。
息を整える。心を落ち着ける。
霧が、ゆっくりと流れている。遠くで、水の音がする。
「……ねえ」
こよいは、巾着に話しかけた。
「……祠は、どんな場所だったの」
「……え」
祠の神の声が、戸惑っている。
「……前の場所。ぼくが見つける前の、祠」
こよいは、岩に背を預けた。
「……聞いてもいい?」
沈黙。
それから、祠の神の声が、小さく聞こえた。
「……むかし、のこと、きく?」
「……うん。聞きたい」
また、沈黙。
巾着が、少しだけ重くなった。
祠が、何かを思い出そうとしている。
「……むかしは」
祠の神の声が、ゆっくりと始まった。
「……ひとが、たくさん、きたんだ」
◇
「……こどもたちが、はしりまわって」
祠の神の声が、続いた。
「……おじいさんが、おさけを、おいて」
「……おばあさんが、おこめを、おいて」
こよいは、目を閉じた。
祠の言葉が、映像になって浮かんでくる。
小さな祠。
山の中腹にある、小さな祠。
石段があって、屋根があって、鈴がある。
子供たちが走り回っている。
笑い声が響いている。
老人が手を合わせている。若者が酒を供えている。
「……にぎやかだった」
祠の神の声に、温かさがあった。
「……まいにち、だれか、きてくれた」
「……ありがとう、って、いってくれた」
「……嬉しかった?」
こよいは聞いた。
「……うん」
祠の神の声が、震えた。
「……とても」
◇
「……でも」
祠の神の声が、変わった。
少しずつ、冷たくなっていく。
「……すこしずつ、こなくなった」
こよいは、黙って聞いていた。
「……まいにち、だったのが、まいしゅうに」
「……まいしゅう、だったのが、まいつきに」
「……まいつき、だったのが、まいとしに」
祠の神の声が、途切れた。
しばらくして、また続いた。
「……わかいひとが、やまを、おりていった」
「……むらが、ちいさくなった」
「……おじいさんも、おばあさんも、いなくなった」
こよいは、胸が締め付けられるのを感じた。
村の過疎化。
若者が出ていき、老人が亡くなり、人がいなくなる。
山の祠は、忘れられていく。
「……さいごに、きてくれたひと」
祠の神の声が、かすれた。
「……おばあさん、だった」
「……『もう、こられなくなるよ』って」
「……『ごめんね』って」
空き地の神が、静かにしている。
こよいも、何も言えなかった。
「……それから」
祠の神の声が、小さくなった。
「……だれも、こなくなった」
◇
「……さびしかった?」
こよいは、そっと聞いた。
「……うん」
祠の神の声。
「……とても」
沈黙。
霧が、ゆっくりと流れている。
遠くの水の音が、かすかに聞こえる。
「……まいにち、まってた」
祠の神の声が続いた。
「……きょうは、だれか、くるかなって」
「……あしたは、だれか、くるかなって」
「……でも、だれも、こなかった」
こよいは、巾着を握りしめた。
温かい。祠の感情が、伝わってくる。
寂しさ。孤独。それでも消えなかった、小さな希望。
「……なんねんも、なんねんも、まってた」
祠の神の声が、震えていた。
「……いつか、だれかが、きてくれるって」
「……しんじてた」
「……それで」
こよいは聞いた。
「……ぼくが来た?」
「……うん」
祠の神の声が、明るくなった。
「……きみが、きてくれた」
こよいは、自分が祠を見つけた日を思い出した。
壊れかけた祠。誰もいない山の中。
巾着が、そこに落ちていた。
「……うれしかった」
祠の神の声。
「……やっと、きてくれたって」
「……ずっと、まってたんだって、おもった」
「……だから」
祠の神の声が、一度止まった。
それから、はっきりと言った。
「……だから、ぼくは待っていた」
その言葉が、胸に染みた。
何年も、何十年も。
誰も来ない山の中で、ずっと待っていた。
それでも、信じていた。いつか、誰かが来ると。
こよいは、目頭が熱くなるのを感じた。
泣いてはいけない。でも、涙が出そうになる。
「……ありがとう」
こよいは、小さく言った。
「……待っていてくれて」
「……うん」
祠の神の声が、穏やかに答えた。
「……きみに、あえて、よかった」
巾着が、温かい。
祠の気持ちが、伝わってくる。
長い孤独の後の、安堵と喜び。
こよいは、その温かさを、しっかりと受け止めた。




