第309話 地下の脈動
北行きの列車を待つ夜、こよいには、どうしても確かめたいことがあった。
老婆に訊くと、皺の奥の目を細めて、駅の裏手を指差した。「間引きの碑なら、丘にあるよ。誰も覚えちゃいないがね」——駅の裏の低い丘に、石柱の列が、忘れられたように並んでいた。
霧が低く漂い、地面が湿った光を返していた。行灯の火が遠くで一つだけ灯り、こよいたちの影を薄く地面に落としている。空気は冷えていたが、経蔵の内部にあった乾いた緊迫感とは違う冷たさだった。生きた場所の、夜の温度だった。
あさひが写本の一頁を地面に置いた。
間引きの石碑が並ぶ場所の、最も手前の石柱の根元に。
何も起きなかった。
風の音すらなかった。石柱の列が闇の中に整然と並び、その沈黙が拒絶のように感じられた。こよいは膝をつき、写本の上に手のひらを置いた。
巾着が脈打った。
温もりが掌から写本を通じて地面に伝わっていった。指先の下で紙の繊維が微かに震え、その震えが石畳の隙間を抜けて土の中に沈んでいく。
地面が光った。
微かな光だった。
蛍が一匹、土の中にいるような弱い光。
写本に記された名前に反応して、地下の堆積層から情報が浮き上がろうとしている。
「反応している」
久遠が義眼で地面を透かし見た。蒼光が石畳の表面を舐めるように這い、土の中の変化を捉えている。
「堆積層の中に残存する情報が、写本の名前と共鳴している。消去されたはずの名前が、写本を介して自分の存在を——思い出している」
光はすぐに消えた。
弱すぎて、維持できなかった。
だが、確かに光った。こよいの掌には、消えた光の余韻がまだ残っていた。土の中の誰かが、一瞬だけ手を伸ばして、また引っ込めたような感触だった。
こよいは別の頁を取り出し、隣の石柱の根元に置いた。
手のひらで触れ、巾着の温もりを送った。
また光った。
前よりも少しだけ明るい。地面の中で、二つの光が互いの存在に気づいたように揺れた。
三枚目。
四枚目。
五枚目。
一枚置くごとに、地面の光が増えていった。
個々は弱いが、並べると互いの光を強め合う。
写本の名前たちが、地下で手を繋いでいるかのように。
あさひが残りの写本を受け取り、石碑の列に沿って一枚ずつ置いていった。
乱暴な手つきだが、正確だった。
一枚ごとに石柱の根元に合わせ、風で飛ばないように小石を端に載せた。石を選ぶとき、あさひの指が一瞬だけ躊躇うように止まった。紙の上に載せる石の重さを、測っているようだった。名前を押し潰さない程度の、軽い石を。
「全部並べろ」
あさひが声を低くして言った。
「全部並べたらどうなるか、見てみたい」
三十七枚の写本が、石碑の列に沿って並んだ。
こよいは列の端から端まで歩き、一枚ずつ手のひらで触れていった。膝の下で石畳が冷たく、手のひらの下で写本が温かかった。二つの温度が腕の中で交差するたびに、巾着が連続して脈打つ。神々が一つ一つの名前に挨拶するように、短く、速く、応えている。
温もりが写本を通じて地面に流れ、堆積層の底に届いた。
光の列ができた。
石碑の根元に沿って、三十七の微かな光が、地面の中で揺れている。
光は互いに糸を引き合い、薄い光の網を形成していた。暗い地面の中に、星座のような模様が浮かんでいる。
おたまが、光の網の真ん中に、そっと足を踏み入れた。糸の一本も乱さずに、三十七の光の中心に座る。すると網の光が、猫を囲むように、ほんのひと呼吸ぶんだけ明るくなった。名前たちが、猫を覚えている——そんな光り方だった。
「まだ甦らない」
久遠が光を見つめた。義眼の蒼光が光の網に重なり、青と金が混じり合って石柱の表面を淡く染めた。
「情報が反応しているだけだ。完全な復元には、もっと強い力が必要だ。経蔵の原本に直接接続しなければ——」
こよいは光の列を見下ろした。
三十七の名前が、地面の底で光っている。
消されたはずの神々が、自分の名前を思い出そうとしている。光の一つ一つが小さく明滅し、まるで呼吸をしているようだった。長い眠りから覚めかけて、けれどまだ目を開けられない誰かの、浅い息のような揺らぎ。
巾着が北を指した。
下ではなく、北。
経蔵の方角だった。
「もう一度、行く。北へ発つ前に、帰す」
こよいが目を逸らさずに言った。
「経蔵はさっき崩れたぞ」
あさひが声を低くして言った。
「全部は崩れてない。中心部は無事だった。……原本に触れたとき、視えたんだ。あの白い光の底に、井戸がある。墨を湛えた、深い井戸。原本の、ほんとうの姿。あれは——まだ、ある」
こよいの声は静かだったが、揺るがなかった。
地面の光が、その声に応えるように一瞬だけ強くなった。三十七の光が同時に脈打ち、光の網が一度だけ鮮やかに浮かび上がった。
三人は写本を回収し、夜の駅へ戻った。
紙を拾い上げるとき、写本の裏面に土がうっすらと付いていた。こよいはそれを払わなかった。この土の中に、名前たちがいる。少しでも繋がっていたかった。丘を降りる背中に、石柱の列の沈黙が、行きよりも柔らかく感じられた。
地面の光は、三人が丘を降りきるまで、消えなかった。
三十七の名前が地下で脈打ち続け、その微かな鼓動が、三人の足裏を通じて踵まで伝わっていた。




