第308話 切符売り場の老婆
列車は、頼んでもいないのに、その駅で止まった。扉が開き、動かない。降りろ、ということらしい。
駅は小さかった。
霧の中から現れた木造の建物は、これまでのどの停車場よりも古く、静かだった。屋根の瓦は苔に覆われ、柱は灰色に変色し、看板があったはずの場所には釘の跡だけが残っている。
切符売り場は建物の右端にあった。
木の窓口が一つだけ。硝子は入っていない。四角い穴の向こうに、人影があった。
老婆だった。
顔の皺は地図のように深く、数え切れないほどの年月が刻まれていた。肌は和紙のように薄く、血管が透けて見えた。手は枯れ枝そのものだった。節くれ立った指が、窓口の台の上に置かれている。爪は黄ばみ、長く、けれど不潔ではなかった。丁寧に手入れされた古い道具のような手だった。
こよいが窓口に近づいた。
老婆の目が動いた。濁った目だった。白内障が進んでいるのか、瞳の色が判別できない。だがその視線は、こよいの顔を通り過ぎて、腰のあたりで止まった。
巾着を見ていた。
「久しぶりだね、その袋」
声は枯れていたが、芯があった。老木の幹を叩いたときの、乾いて硬い響き。
こよいは息を呑んだ。
「知って……るんですか」
「知ってるも何も」
老婆は窓口の台に肘をつき、顎を手に乗せた。
「あたしがここにいた頃から、その袋はあったよ。持ってる子が変わっただけさ」
こよいは巾着に手を当てた。神々は静かだったが、ほんの微かに温もりが増していた。怯えではない。懐かしさに近い温度だった。
そのとき、老婆の濁った目が、こよいの足元に降りた。
おたまが、窓口の台の下に座っていた。
「……おや」
老婆の顔の皺が、深くなった。笑ったのだと、一拍遅れて分かった。
「あんたも一緒かい。相変わらず、切符は要らないんだねえ」
おたまは、当たり前の顔で老婆を見上げた。旧知の挨拶ほどの、短い視線。凍結の前からここにいる切符売りと、いつからいるのか誰も知らない猫。二人の間の時間の長さは、想像もつかなかった。
「切符を三枚。北へ」
久遠が後ろから声をかけた。感情を排した、事務的な声。義眼の蒼光が老婆に向けられていた。だが蒼光が老婆の顔に当たった瞬間、光が揺らいだ。焦点が合わない。久遠の眉が僅かに動いた。
老婆は久遠を一瞥しただけで、窓口の下に手を入れた。
切符が三枚、台の上に並べられた。厚紙を手で裁断した粗い切符だった。端が毛羽立ち、墨が滲んでいる。
こよいは一枚を手に取った。行き先の欄が空白だった。
「あの……どこ行きか書いてないんですけど」
「書かないよ」
老婆は目を細めた。笑ったのかもしれなかった。皺が深すぎて表情の変化が分からなかった。
「行き先は、乗る人が決めるんだよ。あたしが決めるもんじゃない」
こよいは切符を裏返した。裏も白かった。紙の繊維が粗く、指紋が吸い込まれるような質感だった。
「代金は」
久遠が訊いた。蒼光はまだ揺らいていた。
「いらないよ。ここの切符に値段なんてついたことはない」
老婆は三枚の切符を押し出した後、もう一枚、窓口の台に置いた。四枚目の切符。
「帰りの分」
こよいは四枚目を見た。他の三枚と同じ粗い厚紙。同じ空白の行き先欄。違うのは、角が丸く削られていることだけだった。使い古されたように見えた。だが新しい切符のはずだった。
「帰り……」
「行ったら帰っておいで。それだけのことさ」
老婆の声には、命令の響きはなかった。願いでもなかった。ただ当然のことを口にしただけの、平坦な声だった。
あさひが窓口の横に立っていた。
剣の柄に手を置いたまま、老婆を見ている。見ているが、警戒の色はなかった。代わりに、奇妙な表情が浮かんでいた。あさひにしては珍しい、戸惑いに近い顔だった。
「あんた、影がないぞ」
あさひの声は低く、静かだった。
窓口の台に行灯の光が当たっていた。こよいの影がある——列車の中と同じく、一拍遅れて動く影が。久遠の影がある。だが老婆の影だけが、どこにもなかった。書かれていないものの影は、遅れようもない。
老婆は気にした様子もなかった。
「影なんてもんは、あたしくらいの年になると、勝手に先に行っちまうのさ」
久遠が義眼の出力を上げた。蒼光が強まり、窓口の周囲を照らし出した。木目の一本一本まで見えるほどの光量だった。だが老婆の身体を照らしても、義眼が返す情報は何もなかった。名前も、座標も、理の紋様も。
「読めない」
久遠が呟いた。声に焦りはなかった。代わりに、困惑があった。
「読めないんじゃないよ」
老婆が言った。
「書いてないんだ。最初から」
こよいは四枚の切符を手に持っていた。三枚は旅の分。一枚は帰りの分。どれも行き先は空白。どれも代金はない。
「あの……あなたは、誰ですか」
老婆は窓口の奥で椅子に深く腰かけ直した。木の椅子が軋んだ。
「誰でもないよ。ここに座ってるだけの婆さんさ」
「いつから」
「凍結の前から」
こよいの手が止まった。凍結の前。それは何百年も前だった。
老婆は窓口の台に頬杖をつき、霧の向こうを見ていた。何が見えているのか分からなかった。濁った目が、霧よりも深い場所を覗いているようだった。
「昔はね、この駅は賑やかだったよ。神さまたちが来てね、切符を買って、あっちこっちに行ったもんさ。行き先を迷って窓口の前で喧嘩する神さまもいたし、切符をなくして泣く神さまもいた。忙しかったねえ」
老婆の声が、少しだけ柔らかくなった。
「いつからか、来なくなった。一人、また一人と。窓口に来る人がいなくなって。切符が余ってね。ずっと余ってる」
こよいは巾着を握った。神々が脈打った。一度だけ。短く。
「その袋の子もね、昔はよくここに来たよ。小さくて、温かくて。いつも誰かと一緒だった」
神々の温もりが、布越しに強くなった。覚えている。この場所を、この老婆を、覚えている。
あさひが口を開いた。
「あんたは、神じゃないのか」
「神じゃないよ。あたしはただの切符売りさ」
「ただの人間が、何百年も生きるか」
「さあね。座ってたら、いつの間にか経ってたんだよ」
老婆は笑った。今度は分かった。皺が動いて、目が細くなった。歯はほとんどなかったが、笑顔だけは若い頃の面影を残していた。
こよいは四枚目の切符を、巾着の紐に挟んだ。帰りの分。帰るための切符を、神々のそばに置いた。
「ありがとうございます」
「礼はいらないよ。気をつけてお行き」
窓口を離れるとき、こよいは一度だけ振り返った。老婆は窓口の奥で、もう次の客を待つように背筋を伸ばしていた。来るはずのない客を。何百年もそうしてきたように。
久遠が小声で言った。
「理の観測の外にいる存在。義眼でも読めない。理の管理下にないということは、理が認識すらしていないということだ」
あさひが肩越しに駅を見た。
「つまり、最初からいないことになってるってことか。あの婆さんは」
「いないことになっている者が、何百年も切符を売り続けている」
久遠の声には、分析を超えた何かがあった。
こよいは手の中の切符を見た。行き先のない切符。値段のない切符。存在しないことになっている者から受け取った、四枚の紙切れ。
霧の奥で、汽笛が鳴った。
列車が来る。




