↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第10章 波の端

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
307/375

第307話 雫の兄

挿絵(By みてみん)


列車の中で、こよいは写本(しゃほん)(ひざ)の上に広げた。

 経蔵(きょうぞう)から持ち出した紙の束。

 崩壊(ほうかい)の中を走り抜ける間も、一枚も落とさなかった。

 紙の角が少し折れ、(ほこり)で薄く汚れているが、文字は全て読める。指先で角の折れ目をそっと伸ばすと、紙が微かに(きし)んだ。古い紙特有の、乾いた繊維(せんい)が擦れる音だった。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)写本(しゃほん)を照らした。


 蒼光(そうこう)の下で、金色の筆跡(ひっせき)がくっきりと浮かび上がる。文字は一つ一つが丁寧に書かれていて、筆の迷いがなかった。何百回も同じ動作を繰り返した者の手癖が、紙の上に残っている。


 「名前の復元写本(ふくげんしゃほん)間引(まび)かれた神々の記録。全部で——三十七柱(はしら)分」


 こよいは一枚ずつめくっていった。

 一柱(ひとはしら)ごとに、名前と記憶が記されている。

 好きだった場所。


 得意だったこと。

 最後に交わした言葉。


 紙の質が一枚ずつ微妙に違った。厚いもの、薄いもの、繊維(せんい)の粗いもの。最初の神は手に入る紙を選ばず、あるものに書いたのだろう。だがどの紙にも、(すみ)均一(きんいつ)に載っていた。紙の質に合わせて筆圧を変え、一枚一枚を同じ丁寧さで仕上げている。


 七枚目で、巾着(きんちゃく)が跳ねた。

 文字通り、跳ねた。

 腰に結んだ巾着(きんちゃく)が上に(はず)み、(ひも)が引っ張られた。

 神々が中で暴れている。布越しに光が漏れ、こよいの(ひざ)の上の写本(しゃほん)を照らした。


 こよいはその(ページ)を見た。


 名前が書かれている。


 その名前の横に、小さく一文字——。


 「兄」


 「久遠(くおん)


 こよいの声が震えた。


 「読んで」


 久遠(くおん)(ページ)を受け取り、義眼(ぎがん)で文字を追った。蒼光(そうこう)が紙面を滑り、金色の文字を一行ずつ照らし出していく。


 「名前は——雨の神を守る者。役割は、雨の小さな神々の世話。間引(まび)きの理由は『上位互換(じょういごかん)の存在により不要と判断』」


 久遠(くおん)が次の行を読んだ。


 「記憶——生まれたときから雨の神と一緒にいた。雨の神が泣くと空が曇った。雨の神が笑うと虹が出た。最後に会ったとき、雨の神に言った言葉は——」


 久遠(くおん)の声が詰まった。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)が一瞬だけ揺らぎ、紙の上の影が震えた。


 「『おまえはここにいろ。俺が先に行って、道を作っておくから』」


 巾着(きんちゃく)が熱くなった。


 布越しに、光が(あふ)れ出していた。

 神々が全力で脈打っている。脈の一つ一つが強く、速く、こよいの腰骨に振動が伝わるほどだった。


 覚えている。


 この言葉を覚えている。


 兄が最後に言った言葉を。


 こよいは巾着(きんちゃく)を両手で包んだ。

 熱い。


 涙のように熱い。布の繊維(せんい)から光が染み出し、こよいの指の隙間を金色に照らしている。神々の光はいつも淡いものだったが、今は違った。全身で叫んでいるような光だった。


 「知らなかった」


 こよいの声が(かす)れた。


 「この子に、兄弟(きょうだい)がいたこと。知らなかった」


 巾着(きんちゃく)の温度が、さらに上がった。知らなかったことを責めているのではない。知ってくれたことに応えている。ずっと伝えたかったのだ。兄がいたことを。兄が何を言い残したのかを。


 あさひが窓際に座ったまま、黙っていた。

 しばらくして、口を開いた。


 「そいつは——まだどこかにいるのか」


 久遠(くおん)(ページ)の余白を読んだ。


 最初の神の手記(しゅき)が、小さな文字で書き足されていた。他の文字よりも筆圧が強く、紙の裏まで(すみ)(にじ)んでいた。


 「『この子の名を、間引(まび)きの台帳(だいちょう)から消すことはできた。だが、消された後の行き先は分からない。(ことわり)の外に放り出されたのか、情報の(ちり)となって散ったのか。私にも分からない。だが、書き残す。この子がいたことを忘れてはならない。この子たちは選ばれなかったのではない。選ばれる前に消されたのだ』」


 こよいの涙が写本(しゃほん)の上に落ちた。

 紙が(はじ)いた。

 涙が紙の上で丸い粒になり、転がった。

 染み込まない。


 「(すみ)が特殊だ」


 久遠(くおん)が紙の表面を見た。涙の粒が金色の文字の上を滑り、紙の端に向かって転がっていく。文字は一画も(にじ)まなかった。


 「涙で消えないように、(すみ)に何かが混ぜてある。最初の神は、この写本(しゃほん)が泣きながら読まれることを想定(そうてい)していた」


 こよいは涙を(ぬぐ)わなかった。

 写本(しゃほん)の上の涙の粒が、巾着(きんちゃく)の光を受けて小さく光っていた。

 列車が揺れるたびに、粒が紙の上を転がった。


 消えない文字の上を、消えない涙が転がっていく。


 巾着(きんちゃく)の中で、神々がまだ震えていた。

 兄の名前を読んだ瞬間から、止まらなくなっている。震えの合間に、温もりの波が一つずつ押し寄せてくる。悲しみと安堵(あんど)が交互に。知ってもらえた安堵(あんど)と、もう会えない悲しみが。


 閉じる前に、こよいはふと、帳面を出した。忘却の海の浜で拾った、欠けた名前の(ページ)。あの「知っている気がする」名前を、写本(しゃほん)の三十七柱と、一枚ずつ照らし合わせていく。

 二十三枚目で、指が止まった。

 同じ名前だった。最後の一画が欠けたあの文字と、写本(しゃほん)に丁寧に記された完全な名前。浜に流れ着いた頁は、この三十七柱のうちの、一柱の欠片(かけら)だったのだ。忘却の海が呑みきれずに、吐き戻した一枚。

 こよいは欠けた(ページ)を、写本(しゃほん)のその一枚に、そっと重ねた。欠けた一画に浮かんでいた薄い線が、少しだけ、濃くなった。


 おたまが、膝の上の写本(しゃほん)に顎を乗せて、目を閉じていた。三十七の名前の上で、猫の呼吸が、ゆっくりと上下している。


 こよいは写本(しゃほん)を丁寧に閉じ、胸に抱いた。

 壁の向こうに、まだ見つかっていない名前がある。

 雨の神の兄が歩いたはずの、道がある。


 列車の窓の外で、(きり)が薄く光った。

 海の匂いが、微かに混じっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。