第306話 影の遅れ
経蔵を離れた列車の中で、それは始まった。
影が遅れた。
こよいが右手を上げたとき、座席の脇に落ちる影が一拍遅れて動いた。腕が止まっても、影はまだ途中にある。追いついたのは、息をひとつ吐いた後だった。
こよいは手を下ろした。影が下りる。遅い。はっきりと遅い。光と影の間に、見えない泥が詰まっているかのようだった。
「久遠」
「分かってる」
久遠は義眼を灯さなかった。蒼光ではなく、肉眼のほうで通路の床を見ていた。
自分の足元に伸びる影が、わずかに震えている。揺れではない。追いつこうとして、もがいている。
久遠が指を一本立てた。影の指が立つまで、まばたき二回ぶんの間があった。
「時間にして〇・三秒。列車が経蔵を出たときは感じなかった。今、はっきり遅れている」
あさひが窓を見た。
霧の中を走る列車の影が、地面に映っている。灰色の軌道の上に、列車より半車両ぶん後ろに、もう一本の列車がいるように見えた。
影だった。列車の影が、列車に追いつけていない。
「影がひとつ後ろを走ってる」
あさひの声は短かった。
こよいは通路に出て、自分の影を踏んだ。足が着地する。影はまだ一歩前の位置にいる。踏めない。自分の影を踏むことができない。
背筋に冷たいものが走った。
巾着の中で神々が縮こまっている。光を出さない。影の異変を怖がっているのか、それとも影に見つかりたくないのか。
「写本の影も遅れてる」
久遠が膝の上の目録を動かした。目録の影が座席の上を滑るが、本体より遅い。まるで重い荷物を引きずるように、影だけがのろい。
「光源は行灯ひとつ。影は光の反対側に落ちる。物理法則に従う限り、遅延は起きない」
久遠が天井の行灯を見上げた。火は普通に燃えている。芯が揺れ、油が減り、煤が天井につく。光そのものには異常がない。
「影のほうが壊れてる」
「壊れた、というより——」
久遠が言葉を切った。乗車までの短い休みで、わずかに光の戻った義眼を点けた。蒼光が床を走る。
蒼光に照らされた影は正常だった。遅れがない。義眼を消すと、行灯の光だけになる。途端に影が遅れ始める。
「義眼の光には遅延が出ない。行灯の光にだけ出る」
「なんで」
「行灯の火は、この世界の記録に書かれた光だ。義眼は記録の外から持ち込んだ光だ。記録に書かれたもの同士で起きている。影が遅れているんじゃない。記録の処理が遅れている」
こよいは行灯の火を見つめた。火自体は変わらない。影だけがずれる。
つまり、世界は正しく動いている。だが、世界を記録する仕組みが追いついていない。
「観測者が記録を書き換えすぎたんだ」
久遠が義眼を消し、暗い顔で言った。
「書き換えるたびに整合性を取り直す。消した名前の痕跡を隠し、辻褄を合わせ、歴史を縫い直す。その処理が膨大になりすぎて、影のような単純な現象まで手が回らなくなっている」
列車が揺れた。窓の外で、霧に映る列車の影がさらに遅れた。半車両が一車両ぶんになっていた。
深く進むほど悪化している。
あさひが窓から目を離した。
「影が止まったらどうなる」
「分からない。だが、影が追いつけなくなるということは、記録が現実を描写しきれなくなるということだ。描写されない現実は——」
久遠が言い淀んだ。
「存在しないのと同じになる」
車内が静かになった。沈黙が天井から降りてくるように、三人を包んだ。車輪の音だけが床を伝って響いている。
存在しないのと同じ。その言葉の冷たさを、三人はもう知っていた。間引きと同じ場所に、今度は世界の全部が向かっている。観測者が書き換えすぎた世界は、自分の記録に追い抜かれて、少しずつ、描かれない側へ落ちていく。
こよいは自分の影を見下ろした。影がようやく追いついて、足元に重なる。だがこよいが少しでも動けば、また遅れる。じっとしていれば影は正しい位置にいる。動いた瞬間に、剥がれる。
写本を胸に引き寄せた。この中に集めた名前たちにも、かつて影があったはずだ。日向に立てば影ができる。歩けば影がついてくる。それが当たり前だった時代が、この名前たちにもあった。
観測者はその当たり前ごと消した。
巾着がかすかに温かくなった。月の神が少しだけ光っている。怖がっていたのではなかった。影の遅れを、悲しんでいたのだ。
「ぼくたちの影は、まだついてきてる」
こよいが言った。
「遅れてるけど、ついてきてる。消えてない」
久遠が目を伏せた。あさひが鼻を鳴らした。
列車は走り続けた。影を半歩後ろに引きずりながら、霧の奥へ。
窓の外の影がまた少し遅れた。行灯の火が揺れ、車内の影が一斉にぶれた。ぶれて、戻って、また遅れる。
壊れかけた世界の中で、影だけが正直だった。嘘のつけないものが、まだ残っている。それは恐ろしくもあり、どこか、頼もしくもあった。どれほど精巧に繕っても、影の遅れだけは取り繕えない。記録が嘘をついても、影の遅れは隠せない。
そのとき、こよいは気づいた。
おたまの影だけが、遅れていない。
猫が首を傾げれば、影も同時に傾ぐ。尾が揺れれば、影も同時に揺れる。行灯の光の下で、車内でただ一つ、猫の影だけが本体に寸分違わず付き従っていた。
久遠もそれを見ていた。義眼を向け、何かを言いかけ——結局、何も言わずに目録へ視線を戻した。書ける説明が、なかったのだ。
こよいは巾着を握った。雨の神の温もりが掌に伝わる。
影が追いつけない速さで、列車は進んでいく。世界の記録が、また少し、遅れていく。




