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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第10章 波の端

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306/375

第306話 影の遅れ

挿絵(By みてみん)


経蔵(きょうぞう)を離れた列車の中で、それは始まった。


 影が遅れた。


 こよいが右手を上げたとき、座席の脇に落ちる影が一拍(いっぱく)遅れて動いた。腕が止まっても、影はまだ途中にある。追いついたのは、息をひとつ吐いた後だった。


 こよいは手を下ろした。影が下りる。遅い。はっきりと遅い。光と影の間に、見えない泥が詰まっているかのようだった。


 「久遠(くおん)


 「分かってる」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)(とも)さなかった。蒼光(そうこう)ではなく、肉眼のほうで通路の床を見ていた。


 自分の足元に伸びる影が、わずかに震えている。揺れではない。追いつこうとして、もがいている。


 久遠(くおん)が指を一本立てた。影の指が立つまで、まばたき二回ぶんの()があった。


 「時間にして〇・三秒。列車が経蔵(きょうぞう)を出たときは感じなかった。今、はっきり遅れている」


 あさひが窓を見た。


 (きり)の中を走る列車の影が、地面に映っている。灰色の軌道(きどう)の上に、列車より半車両ぶん後ろに、もう一本の列車がいるように見えた。


 影だった。列車の影が、列車に追いつけていない。


 「影がひとつ後ろを走ってる」


 あさひの声は短かった。


 こよいは通路に出て、自分の影を踏んだ。足が着地する。影はまだ一歩前の位置にいる。踏めない。自分の影を踏むことができない。


 背筋に冷たいものが走った。


 巾着(きんちゃく)の中で神々が縮こまっている。光を出さない。影の異変を怖がっているのか、それとも影に見つかりたくないのか。


 「写本(しゃほん)の影も遅れてる」


 久遠(くおん)(ひざ)の上の目録(もくろく)を動かした。目録(もくろく)の影が座席の上を滑るが、本体より遅い。まるで重い荷物を引きずるように、影だけがのろい。


 「光源は行灯(あんどん)ひとつ。影は光の反対側に落ちる。物理法則に従う限り、遅延(ちえん)は起きない」


 久遠(くおん)が天井の行灯(あんどん)を見上げた。火は普通に燃えている。(しん)が揺れ、油が減り、(すす)が天井につく。光そのものには異常がない。


 「影のほうが壊れてる」


 「壊れた、というより——」


 久遠(くおん)が言葉を切った。乗車までの短い休みで、わずかに光の戻った義眼(ぎがん)()けた。蒼光(そうこう)が床を走る。


 蒼光(そうこう)に照らされた影は正常だった。遅れがない。義眼(ぎがん)を消すと、行灯(あんどん)の光だけになる。途端に影が遅れ始める。


 「義眼(ぎがん)の光には遅延(ちえん)が出ない。行灯(あんどん)の光にだけ出る」


 「なんで」


 「行灯(あんどん)の火は、この世界の記録に書かれた光だ。義眼(ぎがん)は記録の外から持ち込んだ光だ。記録に書かれたもの同士で起きている。影が遅れているんじゃない。記録の処理が遅れている」


 こよいは行灯(あんどん)の火を見つめた。火自体は変わらない。影だけがずれる。


 つまり、世界は正しく動いている。だが、世界を記録する仕組みが追いついていない。


 「観測者(かんそくしゃ)が記録を書き換えすぎたんだ」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を消し、暗い顔で言った。


 「書き換えるたびに整合性(せいごうせい)を取り直す。消した名前の痕跡(こんせき)を隠し、辻褄(つじつま)を合わせ、歴史を縫い直す。その処理が膨大(ぼうだい)になりすぎて、影のような単純な現象まで手が回らなくなっている」


 列車が揺れた。窓の外で、(きり)に映る列車の影がさらに遅れた。半車両が一車両ぶんになっていた。


 深く進むほど悪化している。


 あさひが窓から目を離した。


 「影が止まったらどうなる」


 「分からない。だが、影が追いつけなくなるということは、記録が現実を描写(びょうしゃ)しきれなくなるということだ。描写(びょうしゃ)されない現実は——」


 久遠(くおん)が言い(よど)んだ。


 「存在しないのと同じになる」


 車内が静かになった。沈黙が天井から降りてくるように、三人を包んだ。車輪の音だけが床を伝って響いている。

 存在しないのと同じ。その言葉の冷たさを、三人はもう知っていた。間引きと同じ場所に、今度は世界の全部が向かっている。観測者が書き換えすぎた世界は、自分の記録に追い抜かれて、少しずつ、描かれない側へ落ちていく。


 こよいは自分の影を見下ろした。影がようやく追いついて、足元に重なる。だがこよいが少しでも動けば、また遅れる。じっとしていれば影は正しい位置にいる。動いた瞬間に、()がれる。


 写本(しゃほん)を胸に引き寄せた。この中に集めた名前たちにも、かつて影があったはずだ。日向(ひなた)に立てば影ができる。歩けば影がついてくる。それが当たり前だった時代が、この名前たちにもあった。


 観測者(かんそくしゃ)はその当たり前ごと消した。


 巾着(きんちゃく)がかすかに温かくなった。月の神が少しだけ光っている。怖がっていたのではなかった。影の遅れを、悲しんでいたのだ。


 「ぼくたちの影は、まだついてきてる」


 こよいが言った。


 「遅れてるけど、ついてきてる。消えてない」


 久遠(くおん)が目を伏せた。あさひが鼻を鳴らした。


 列車は走り続けた。影を半歩後ろに引きずりながら、(きり)の奥へ。


 窓の外の影がまた少し遅れた。行灯(あんどん)の火が揺れ、車内の影が一斉にぶれた。ぶれて、戻って、また遅れる。


 壊れかけた世界の中で、影だけが正直だった。嘘のつけないものが、まだ残っている。それは恐ろしくもあり、どこか、頼もしくもあった。どれほど精巧に(つくろ)っても、影の遅れだけは取り(つくろ)えない。記録が嘘をついても、影の遅れは隠せない。


 そのとき、こよいは気づいた。

 おたまの影だけが、遅れていない。

 猫が首を傾げれば、影も同時に傾ぐ。尾が揺れれば、影も同時に揺れる。行灯(あんどん)の光の下で、車内でただ一つ、猫の影だけが本体に寸分違わず付き従っていた。

 久遠(くおん)もそれを見ていた。義眼(ぎがん)を向け、何かを言いかけ——結局、何も言わずに目録(もくろく)へ視線を戻した。書ける説明が、なかったのだ。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握った。雨の神の温もりが(てのひら)に伝わる。


 影が追いつけない速さで、列車は進んでいく。世界の記録が、また少し、遅れていく。

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