↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第10章 波の端

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
303/375

第303話 消える線

挿絵(By みてみん)


久遠(くおん)の手が、止まらない。止まれば、その分だけ名前が消える。


 壁に刻まれた名前を読み、口に出し、こよいが帳面に書く。その繰り返しが、もう何刻続いているのか分からなかった。


 久遠(くおん)の声は枯れ始めていた。それでも読む速度は落ちない。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)が壁の表面を滑り、消えかけた文字を一つ残らず拾い上げる。


 こよいの手も動き続けていた。帳面に書く文字が、最初の頃より崩れている。速さを優先して丁寧さを削った。(すみ)が指先にこびりつき、(つめ)の隙間まで黒く染まっている。読めればいい。残せればいい。

 通路の空気が冷たく、吐く息がかすかに白い。石壁が蓄えた冷気が、二人の背中に張りついていた。おたまが、二人の足元に身体を寄せ、腹の温度を分けている。小さな暖の分だけ、筆先の震えが減った。


 壁の上の方で、また一行が消えた。


 「……っ」


 こよいは筆を握りしめた。消えた行に、さっき読んだばかりの名前があった。書き終わる前に消えた。帳面には最初の一文字だけが残っている。


 「次」


 久遠(くおん)が言った。振り返らない。消えたものを惜しむ時間がない。壁は今も消え続けている。


 こよいは新しい行に筆を走らせた。久遠(くおん)が読み上げる名前を、一つずつ、一つずつ紙に刻んでいく。


 「あの(ひと)。みなめ。かざり。つきみ」


 四つの名前が紙に並んだ。(すみ)が紙に染みる匂いが、通路の冷えた空気に混じる。久遠(くおん)が次の壁面に移る。こよいは帳面を見た。この(ページ)だけで十二の名前が並んでいる。どれも二文字か三文字の、短いひらがなの名前だった。


 経蔵(きょうぞう)の壁には、こよいが知らない時代の名前が無数に眠っていた。最初の神が世界を設計したときに記録された名前。観測者(かんそくしゃ)が管理し、やがて消し始めた名前。長い歴史の中で生まれ、忘れられ、それでも石の中に残り続けた名前。


 その全てが、今、消されようとしている。


 「久遠(くおん)。壁のどのくらいが残ってる」


 「この通路だけで、まだ七割は残っている。だが消去の速度が上がっている。俺たちが読み始めてから、速くなった」


 「気づかれてるのか。俺たちの存在に」


 「気づかれているというより、経蔵(きょうぞう)の防御機構が、記録の持ち出しを検知したのだろう。帳面に書き写す行為自体が、複製(ふくせい)と見なされている」


 こよいは帳面を膝の上に押し付けた。複製が禁じられているなら、もう書き写すことはできない。書くたびに壁の消去が加速する。


 「でも、書かなかったら全部消える」


 「そうだ。書いても消える。書かなくても消える。だが書けば、帳面には残る」


 久遠(くおん)が振り返った。目が赤かった。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)ではなく、充血(じゅうけつ)の赤。壁の文字を読み続けた裸眼(らがん)が、限界に近づいている。


 「書け。俺が読む限り、お前は書け」


 こよいは帳面を開き直した。手の震えが止まらない。それでも筆先は紙の上を走った。震えたまま書く。震えごと、名前を写す。

 あの人。みなめ。かざり。つきみ。書いた名前を、こよいは声に出さずに読み返した。呼べないなら、覚える。帳面が焼けても、覚えていれば、名前は残る。十二を超えたところで、数えるのをやめた。数える時間も、惜しかった。


 壁の文字がまた消えた。消えた場所の石が露出し、冷たい石の匂いが(ただよ)ってきた。名前が消えると、石が裸になる。何も刻まれていない石は、冷たく、乾いていて、何もない。


 こよいは筆を走らせた。手が痛い。指の関節が(きし)んでいる。それでも止めない。止めたら、消える名前をただ見ているだけになる。


 通路の奥から、足音が返ってきた。


 あさひだった。大剣を片手に持ち、肩で息をしている。額に汗が光っていた。(やいば)結晶(けっしょう)が薄緑に明滅し、あさひの汗に混じって石の粉が(ほお)に張りついていた。

 肩で呼吸するたびに、通路の冷えた空気が(のど)の奥を刺した。


 「奥に、機構(きこう)がある」


 あさひが壁に背を預けた。


 「消してるのは壁の向こう側だ。機構(きこう)が壁の裏から文字を削ってる。俺の剣で一つ壊したが、別の機構(きこう)がすぐに代わりに動き出した。きりがない」


 息が上がっていた。単独で奥へ入り、戻ってきたあさひの外套(がいとう)には、石の粉と、細かい紙の切れ端がこびりついている。壁の裏で何と向き合ってきたのか、その汚れだけが語っていた。


 「写本(しゃほん)を取る」


 こよいが言った。


 久遠(くおん)とあさひが同時に振り返った。こよいの声は小さかったが、通路の壁に跳ね返り、奥まで響いた。


 「帳面に写してる場合じゃない。あの壁龕(へきがん)の束——最初の神が写して置いていった、復元の写本(しゃほん)。あれを持ち出す。おたまが見つけてくれた、あれを」


 久遠(くおん)が息を呑んだ。


 「経蔵(きょうぞう)から写本(しゃほん)を持ち出せば、防御機構がさらに強く反応する」


 「分かってる。でも、帳面に写すだけじゃ間に合わない。もう何十も消えた。消えた名前は二度と戻らない。これ以上失くせない」


 あさひが大剣を担ぎ直した。(やいば)に付いた石の破片が、通路の()を反射してきらりと光った。


 「やるなら早くしろ。俺は奥へ戻って機構(きこう)を押さえる。その間に、お前たちは壁龕(へきがん)の写本を持ち出せ。……終わったら、裂け目の手前で合流だ」


 こよいは立ち上がった。帳面を(ふところ)にしまい、巾着(きんちゃく)を握った。神々が脈打っている。警告(けいこく)ではない。覚悟の脈だった。こよいの決意に応えるように、巾着(きんちゃく)が一段と温かくなった。布越しに伝わる熱が、握った(てのひら)(しん)から温める。


 「行こう」


 こよいの声は、もう震えていなかった。

 あさひが奥へ、機構の方角へ駆け戻っていく。おたまが先に、壁龕(へきがん)の方角へ駆け出した。迷いのない猫の背中が、こよいと久遠(くおん)に道を示している。

 二手に分かれて、走り出した。足音が壁に反響し、消えかけた文字を震わせた。名前たちが、その背中を見送っている。まだ消えていない名前たちが、壁の中から。間に合うか、間に合わないか。答えは、走った先にしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。