第303話 消える線
久遠の手が、止まらない。止まれば、その分だけ名前が消える。
壁に刻まれた名前を読み、口に出し、こよいが帳面に書く。その繰り返しが、もう何刻続いているのか分からなかった。
久遠の声は枯れ始めていた。それでも読む速度は落ちない。義眼の蒼光が壁の表面を滑り、消えかけた文字を一つ残らず拾い上げる。
こよいの手も動き続けていた。帳面に書く文字が、最初の頃より崩れている。速さを優先して丁寧さを削った。墨が指先にこびりつき、爪の隙間まで黒く染まっている。読めればいい。残せればいい。
通路の空気が冷たく、吐く息がかすかに白い。石壁が蓄えた冷気が、二人の背中に張りついていた。おたまが、二人の足元に身体を寄せ、腹の温度を分けている。小さな暖の分だけ、筆先の震えが減った。
壁の上の方で、また一行が消えた。
「……っ」
こよいは筆を握りしめた。消えた行に、さっき読んだばかりの名前があった。書き終わる前に消えた。帳面には最初の一文字だけが残っている。
「次」
久遠が言った。振り返らない。消えたものを惜しむ時間がない。壁は今も消え続けている。
こよいは新しい行に筆を走らせた。久遠が読み上げる名前を、一つずつ、一つずつ紙に刻んでいく。
「あの人。みなめ。かざり。つきみ」
四つの名前が紙に並んだ。墨が紙に染みる匂いが、通路の冷えた空気に混じる。久遠が次の壁面に移る。こよいは帳面を見た。この頁だけで十二の名前が並んでいる。どれも二文字か三文字の、短いひらがなの名前だった。
経蔵の壁には、こよいが知らない時代の名前が無数に眠っていた。最初の神が世界を設計したときに記録された名前。観測者が管理し、やがて消し始めた名前。長い歴史の中で生まれ、忘れられ、それでも石の中に残り続けた名前。
その全てが、今、消されようとしている。
「久遠。壁のどのくらいが残ってる」
「この通路だけで、まだ七割は残っている。だが消去の速度が上がっている。俺たちが読み始めてから、速くなった」
「気づかれてるのか。俺たちの存在に」
「気づかれているというより、経蔵の防御機構が、記録の持ち出しを検知したのだろう。帳面に書き写す行為自体が、複製と見なされている」
こよいは帳面を膝の上に押し付けた。複製が禁じられているなら、もう書き写すことはできない。書くたびに壁の消去が加速する。
「でも、書かなかったら全部消える」
「そうだ。書いても消える。書かなくても消える。だが書けば、帳面には残る」
久遠が振り返った。目が赤かった。義眼の蒼光ではなく、充血の赤。壁の文字を読み続けた裸眼が、限界に近づいている。
「書け。俺が読む限り、お前は書け」
こよいは帳面を開き直した。手の震えが止まらない。それでも筆先は紙の上を走った。震えたまま書く。震えごと、名前を写す。
あの人。みなめ。かざり。つきみ。書いた名前を、こよいは声に出さずに読み返した。呼べないなら、覚える。帳面が焼けても、覚えていれば、名前は残る。十二を超えたところで、数えるのをやめた。数える時間も、惜しかった。
壁の文字がまた消えた。消えた場所の石が露出し、冷たい石の匂いが漂ってきた。名前が消えると、石が裸になる。何も刻まれていない石は、冷たく、乾いていて、何もない。
こよいは筆を走らせた。手が痛い。指の関節が軋んでいる。それでも止めない。止めたら、消える名前をただ見ているだけになる。
通路の奥から、足音が返ってきた。
あさひだった。大剣を片手に持ち、肩で息をしている。額に汗が光っていた。刃の結晶が薄緑に明滅し、あさひの汗に混じって石の粉が頬に張りついていた。
肩で呼吸するたびに、通路の冷えた空気が喉の奥を刺した。
「奥に、機構がある」
あさひが壁に背を預けた。
「消してるのは壁の向こう側だ。機構が壁の裏から文字を削ってる。俺の剣で一つ壊したが、別の機構がすぐに代わりに動き出した。きりがない」
息が上がっていた。単独で奥へ入り、戻ってきたあさひの外套には、石の粉と、細かい紙の切れ端がこびりついている。壁の裏で何と向き合ってきたのか、その汚れだけが語っていた。
「写本を取る」
こよいが言った。
久遠とあさひが同時に振り返った。こよいの声は小さかったが、通路の壁に跳ね返り、奥まで響いた。
「帳面に写してる場合じゃない。あの壁龕の束——最初の神が写して置いていった、復元の写本。あれを持ち出す。おたまが見つけてくれた、あれを」
久遠が息を呑んだ。
「経蔵から写本を持ち出せば、防御機構がさらに強く反応する」
「分かってる。でも、帳面に写すだけじゃ間に合わない。もう何十も消えた。消えた名前は二度と戻らない。これ以上失くせない」
あさひが大剣を担ぎ直した。刃に付いた石の破片が、通路の灯を反射してきらりと光った。
「やるなら早くしろ。俺は奥へ戻って機構を押さえる。その間に、お前たちは壁龕の写本を持ち出せ。……終わったら、裂け目の手前で合流だ」
こよいは立ち上がった。帳面を懐にしまい、巾着を握った。神々が脈打っている。警告ではない。覚悟の脈だった。こよいの決意に応えるように、巾着が一段と温かくなった。布越しに伝わる熱が、握った掌を芯から温める。
「行こう」
こよいの声は、もう震えていなかった。
あさひが奥へ、機構の方角へ駆け戻っていく。おたまが先に、壁龕の方角へ駆け出した。迷いのない猫の背中が、こよいと久遠に道を示している。
二手に分かれて、走り出した。足音が壁に反響し、消えかけた文字を震わせた。名前たちが、その背中を見送っている。まだ消えていない名前たちが、壁の中から。間に合うか、間に合わないか。答えは、走った先にしかなかった。




