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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第10章 波の端

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302/375

第302話 書き残す者

挿絵(By みてみん)


壁に文字があった。

 天井から床まで、隙間なく刻まれた文字の列が、経蔵の内壁を覆い尽くしている。こよいは首を反らして天井を見上げた。文字は石の継ぎ目すら無視して、途切れることなく続いていた。天井の暗がりに溶けるまで、ひたすらに。こよいの首が痛くなるほど見上げても、文字の終わりは見えなかった。


 名前だった。


 一行が一つの名前に対応している。書体は古く、墨の色も一様ではない。黒、灰、茶、中には金色の文字もある。数百年、あるいは数千年にわたって書き足されてきた記録の集積だ。金色の文字は特に古いらしく、画の一本一本が太く、力強い筆圧で石に食い込んでいた。

 久遠が義眼の蒼光を壁に向けた。光に照らされた文字が浮かび上がり、その下に刻まれた細い注釈まで読み取れるようになった。壁の凹凸が蒼光に浮き彫りになり、文字の深さがまちまちであることが分かる。深く彫られたものは何百年も前のもの、浅いものは比較的新しい記録だろう。


 「名前と、その名前が持っていた(ことわり)の記述だ。名の由来、属性、消滅の経緯。すべてが記されている」


 久遠(くおん)の声は低く、抑えられていた。義眼(ぎがん)が文字を追う速度が上がっている。蒼光(そうこう)が壁の上を忙しなく動き、読み取った情報を処理しきれないかのように明滅した。


 こよいは壁に近づき、目の高さにある一行を読もうとした。

 読めなかった。文字の形は認識できるが、意味が頭に入ってこない。古い書体のせいだけではない。文字そのものが、薄くなっていた。石の表面に刻まれた溝は残っているのに、(すみ)の色だけが抜けている。骨だけ残って肉が消えた文字。


 「久遠(くおん)くん、この文字——」


 「消えている」


 久遠(くおん)(さえぎ)った。


 義眼(ぎがん)の焦点が壁の一点に固定された。蒼光(そうこう)が強まり、こよいの横顔を青白く照らした。


 「いま、この瞬間にも消えている。見ろ」


 久遠(くおん)が指差した先で、一行の文字が端から薄くなっていった。

 (すみ)の色が灰になり、灰が白になり、白が石の地肌に溶けた。数秒で一行が消えた。その下の行が繰り上がることもなく、ただ空白が残った。消えた名前の形だけが、石の溝として壁に残っている。名前があった(あかし)が、空の(うつわ)になっていた。


 こよいは息を止めた。


 次の行が消え始めた。今度はもっと速い。端からではなく、中央から。名前の真ん中が先に消え、残された左右の文字が意味を失って崩れていく。


 「……観測者(かんそくしゃ)だ」


 久遠(くおん)が奥歯を()んだ。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)が一瞬だけ揺らぎ、壁に映る光の輪郭(りんかく)が震えた。


 「外からではない。経蔵(きょうぞう)の内側から、記録を漂白(ひょうはく)している。壁に直接手を加えてる」


 「止められないの?」


 こよいの声が震えた。


 「止められない。読むしかない。消える前に読んで、目録(もくろく)に写す。それしか方法がない」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を開き、義眼(ぎがん)を全開にした。蒼光(そうこう)が壁全体に広がった。石の表面が蒼い光に染まり、まだ残っている文字が鮮明に浮かび上がる。だが鮮明になった瞬間から、また端が薄れていく。照らされたことで消去が加速しているのか、それとも時間がそれだけ迫っているのか。

 読む速度は尋常(じんじょう)ではなかった。義眼(ぎがん)が一行を捉え、手が目録(もくろく)に書き写す。一行三秒。だが壁の文字は二秒で消えていく。追いつかない。


 あさひが壁の前に立った。


 「どこから消えている」


 「上からだ。天井に近い行から順に消えている。まだ下半分は残っている」


 久遠(くおん)の声に焦りが(にじ)んでいた。


 あさひは壁を見上げた。天井付近はすでに白い石肌が露出している。消去の波は上から下へ、潮が引くように進んでいた。上半分の壁は、もう白い石の壁でしかなかった。名前があったはずの場所に、彫りの溝だけが等間隔に並んでいる。墓石の列のように。


 こよいは壁に手を伸ばした。

 消えかけている一行に、指先が触れた。


 温かかった。


 文字が消える瞬間、石の表面にかすかな熱が残る。消えた文字の名残だ。こよいは指先でその温度を拾い、目を閉じた。


 声が聞こえた気がした。


 言葉ではない。名前を呼ぼうとして、届かなかった誰かの気配。指先から腕を伝い、胸の奥に沈んでいく。巾着(きんちゃく)の中の神々が、その気配に反応して一度だけ強く脈打った。


 「この線は、誰かの名前だった」


 こよいが(つぶや)いた。


 指先の温度が消えた。石の表面は冷たくなり、残った溝からは、文字の熱がすっかり抜け落ちていた。器だけがあって、中身がない。


 「全部、名前だったんだ。一本一本の線が、誰かがここにいた(あかし)だった」


 「ああ」


 久遠(くおん)目録(もくろく)に書き写しながら答えた。筆を走らせる手が震えていた。震えを抑えようとして、余計に文字が乱れている。


 「そして、その(あかし)が今まさに抹消(まっしょう)されている。経蔵(きょうぞう)ごと漂白(ひょうはく)するつもりだ。記録を消せば、存在した事実そのものが消える」


 「急げ。どのくらい時間がある」


 あさひが久遠(くおん)に訊いた。


 「分からない。だが消去の速度は上がっている。上の行が消えるにつれて、下の行が消える速度も速くなっている。加速している」


 久遠(くおん)の手が止まらなかった。義眼(ぎがん)が行を追い、指が目録(もくろく)に文字を刻む。汗がこめかみを伝い、目録(もくろく)(ページ)に落ちた。落ちた汗が紙に染みを作ったが、久遠(くおん)はそれすら(ぬぐ)わなかった。


 こよいは壁の前にしゃがみ込んだ。


 床に近い部分の文字はまだ鮮明だった。(すみ)の色が濃く、彫りも深い。古い記録ほど下に、新しい記録ほど上に書かれているようだ。

 つまり、新しい名前から先に消されている。


 「久遠(くおん)くん。下の方の文字、まだはっきり読める。でも上はもう——」


 「分かっている。下へ行く」


 久遠(くおん)が壁の前に膝をつき、目録(もくろく)を床に置いた。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)を床付近に集中させた。


 あさひは通路の奥を見た。


 「奥にも壁はあるのか」


 「ある。経蔵(きょうぞう)内壁(ないへき)すべてに記録がある。だが奥の方が古い記録だ。消去がここまで及んでいないなら、奥にはまだ手つかずの記録が残っているはずだ」


 「なら奥へ行く。こっちはお前に任せる」


 あさひが大剣の(つか)に手をかけた。


 久遠(くおん)は一瞬だけ顔を上げた。


 「一人で行くのか」


 「壁を読むのは俺の仕事じゃない。奥で何かが消す作業をしているなら、それを止めるのが俺の仕事だ」


 あさひの背中が通路の奥へ消えた。足音が石の壁に反響し、やがて遠くなった。その足音が消えた後も、壁の中に反響の残響(ざんきょう)が長く残った。


 こよいは久遠(くおん)の隣にしゃがんだ。


 「ぼくにできることはある?」


 「俺が読み上げる。お前は帳面に書け。二人で写せば、一人の倍の速度で残せる」


 こよいは帳面を開いた。筆を握る手が震えていた。


 壁の文字がまた一行、消えた。消えた場所から、冷たい石の匂いが漂ってきた。名前が消えると、石が露出する。何も刻まれていない素の石は、冷たく、乾いていた。


 こよいは上を見ないようにした。消えていく文字を見れば、手が止まる。今は、まだ残っている文字だけを見ていなければならない。


 書き始める直前、こよいは、おたまが通路の脇を見つめていることに気づいた。

 浅い壁龕(へきがん)があった。中に、紙の束が積まれている。整った綴じ。見覚えのある、丁寧な筆致(ひっち)の背文字。最初の神の手だ。消されていく壁の名前を、誰かが先回りして、写して、ここに置いていた——復元のための写し。全部ではない。だが、確かにある。

 「久遠(くおん)くん、あれ——」

 「後だ。今は書け。あれが何かは、あれが無事なうちに確かめればいい」


 久遠(くおん)が最初の名前を読み上げた。


 こよいの筆が、帳面の上を走り始めた。

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