第301話 記録の朱
朝のうちに番小屋を発ち、三人は再び裂け目をくぐった。手形の通路を、昨日引き返した場所まで降り、その先へ。朱い光が、一歩ごとに濃くなっていく。
通路が途切れた。
砂の床が終わり、足の裏に硬い感触が返ってきた。石ではない。踏んだ瞬間、微かに撓る。
紙だった。
何層にも圧し固められた紙が、床になっている。踏むたびに、古い墨の匂いが足元から立ち昇った。乾いた匂いではなかった。湿った土の下に長く埋もれていた書物を掘り起こしたときのような、重く甘い腐葉の気配が混じっている。
久遠が義眼の蒼光を広げた。
狭い通路が終わり、天井の高い空間が開けている。こよいは顔を上げた。
壁が、文字だった。
石に彫られた名前。紙を貼り重ねた名前。墨で直接書きつけた名前。壁の表面を隙間なく埋める文字が、蒼光に照らされて一斉に浮かび上がった。天井まで続いている。見上げても終わりが見えない。文字の大きさはまちまちだった。手のひらほどの大きな文字もあれば、爪先でなければ書けないような細かい文字もある。だがどれも、一画ずつ丁寧に刻まれていた。
こよいの足音が、奥へ向かって長く伸びた。
反響が返ってくるまでに、三拍かかった。それだけ深い。音が戻ってくるとき、微かに変質していた。自分の足音のはずなのに、誰かの足音が混じっているように聞こえる。
空気が冷たかった。外とは別の季節のように、肌が粟立つほどの冷気が足首のあたりに溜まっている。息を吐くと、白くはならないが、肺の中で空気が重く沈んだ。紙と石と、古い時間の匂い。吸い込むたびに、鼻の奥がひりひりした。乾燥しているのに湿っている。矛盾した空気だった。
あさひが天井を見上げた。
「柱がねぇ」
支えるものが何もないのに、天井は落ちてこない。壁そのものが構造を支えている。圧し固められた紙と石の壁が、互いにもたれ合うようにして空間を保っていた。こよいが首を反らして天井を見ると、暗がりの中にうっすらと文字が浮かんでいた。天井にまで、名前が刻まれている。
あさひが壁を拳の背で軽く叩いた。硬い。だが石を叩いたときの音ではなかった。もっと詰まった、密度のある音。叩いた衝撃が壁の中を伝って、遠くで小さな反響を返してくる。中に何かが挟まっている。
「名前だ」
久遠が壁の断面に義眼を寄せた。
「壁の中にも紙が入っている。名前を書いた紙を、石と石の間に挟んで壁にしている。この建物は——記録そのものでできている」
こよいは壁に手を当てた。
冷たい。だが冷たさの奥に、別の温度がある。手のひら全体で壁を感じると、紙の繊維が石と一体になっていることが分かった。名前を書いた紙が、長い年月をかけて石の一部になっている。指先の下で、文字の凹凸が皮膚に食い込む。彫られた名前の一つに触れたとき、巾着が跳ねた。
小さく、だが確かに。
神々が脈打っている。こよいの心臓とは違うリズムで、速く、切迫したように。
壁の名前を指でなぞった。読めない書体だった。だが巾着は反応している。この名前を、神々は知っている。
指を隣の名前に移した。反応はなかった。さらに隣。反応はない。四つ目の名前に触れたとき、また巾着が跳ねた。今度は先ほどより強く。
「……この子に、会ったことがある」
こよいが指を壁に当てたまま呟いた。記憶にはない。だが神々の脈が、嘘をつかない。旅の途中で出会った神々の名前が、この壁に刻まれている。
久遠が義眼で名前を読んだ。
「間引かれた神の名だ。第七次選別の記録に載っている」
こよいは手を離さなかった。指先を通じて、微かな振動が伝わってくる。壁の奥から。建物の深部から。
最初は気のせいだと思った。だが足の裏にも感じた。床を通じて、規則的な振動が上がってくる。
脈だった。
建物が、脈打っている。
あさひも気づいた。足を止め、床を見下ろした。大剣の柄を握る手が、一瞬だけ強張った。
「……生きてやがるのか、この建物」
誰も答えなかった。答える代わりに、三人とも足の裏に意識を集めた。振動は途切れない。遅く、重く、深い場所から上がってくる。心臓の鼓動に似ているが、もっと大きなものの脈だった。建物全体が一つの臓器であるかのように、壁も床も天井も、同じ律動で微かに震えている。
こよいは息を止めた。振動に耳を澄ませると、脈の合間に別の音が聞こえた。紙が擦れる音。壁の中で、名前を書いた紙が微かに動いている。呼吸のように。
通路は奥に向かって枝分かれしていた。
左右に細い道が伸び、正面にはやや広い通路が続いている。どの方向にも、壁は名前で埋まっていた。左の通路は暗く、右の通路にはかすかに風が通っている。名前を書いた紙が、その風に揺れていた。
正面の通路の奥から、光が漏れていた。
朱い光。裂け目から差し込んでいたものと同じ色だが、ここではより濃く、空気そのものが朱く染まっている。壁の名前が、朱い光の中で影を落としていた。文字の一つひとつが、小さな石碑のように壁から浮き出ている。
久遠が正面を見据えた。義眼の蒼光が、朱い光と混じり合い、壁の名前を紫がかった色に染めた。
「目録と同じ光だ。記録の中枢が近い」
こよいは壁から手を離した。指先に、文字の圧痕が残っている。名前の形をした窪みが、しばらく消えなかった。
三人は正面の通路に足を踏み入れた。
通路は緩やかに下っていた。一歩ごとに、朱い光が濃くなる。壁の名前が一つずつ照らされていく。こよいの巾着は、そのたびに小さく震えた。知っている名前が、まだある。まだ、たくさん。
あさひが前を歩いた。大剣の鍔が壁に触れないよう、刀身を身体に寄せている。通路は狭くはないが、あさひの体格には窮屈だった。それでも足取りは慎重で、床の感触を確かめるように一歩ずつ踏みしめていた。
久遠が壁に目を走らせながら歩く。義眼が名前を読み、目録と照合している。時折、小さく息を呑む音が聞こえた。読めた名前の中に、何かを見つけているのだろう。だが久遠は何も言わなかった。
おたまが、脈打つ床の上を、拍に合わせて歩いていた。建物の鼓動と、猫の足取り。二つの律動が重なって、通路の奥へと吸い込まれていく。
床の振動が、少しだけ速くなった。
近づいているのだと、足の裏が教えていた。




