第299話 手形の通路
正門は、そもそも見つからなかった。
経蔵の外壁は、空へ続く高さのまま、どこまでも閉じている。だが、手形の列が示す東の一点で、久遠の義眼が異変を捉えた。蒼光が壁の表面を走査し、ある一点で光の戻り方が変わった。光が石に吸い込まれずに、隙間へ滑り込んでいく。
「ここだ」
壁に裂け目があった。
幅は手のひら二つ分。高さはあさひの背丈ほど。
石が割れたのではなく、押し広げられたような裂け方だった。
内側から力を加えて、石を左右にこじ開けている。裂け目の縁は滑らかで、石を割ったときの鋭い断面とは違っていた。長い時間をかけて少しずつ、少しずつ押し広げた形だ。暴力ではない。忍耐の痕跡だった。
「最近できたものだ。石の断面がまだ新しい」
久遠が断面に触れた。
冷たくなかった。
石の奥から、微かな温もりが漏れている。経蔵の内部の空気が、この裂け目を通じて外に滲み出していた。紙と墨と、長い年月の匂いが、石の隙間から流れてくる。
「あさひさん、通れる?」
こよいが裂け目の幅を見た。こよいと久遠なら問題なく通れる幅だが、あさひの肩幅には足りない。
あさひは外套の留め具を外し、大剣を先に裂け目に差し入れた。
横向きになり、肩を斜めにして身体を押し込んだ。
石が鎧を擦る音がした。金属と石が擦れる硬い音が、裂け目の中で反響する。狭い空間に閉じ込められた音は、外には漏れず、石の内側で消えていった。
「通れる。ぎりぎりだがな」
あさひの声が壁の向こうから聞こえた。声が少しくぐもっている。壁の厚みを通過した声だった。
こよいが続き、久遠が最後に入った。久遠は裂け目を通るとき、義眼の蒼光を消した。石の断面が光を反射して外に漏れるのを防ぐためだった。
壁の内側は、通路だった。
外壁と内壁の間に、人一人が歩ける程度の空間が続いている。
天井は低く、こよいでも頭を下げなければならなかった。空気が淀んでいる。何年もの間、換気されていない空気の重さがあった。けれど、不快ではない。古い書物の匂いが空気に溶け込み、呼吸するたびに紙の記憶が肺に入ってくるようだった。
床は石ではなく砂で、足を置くと沈む。砂の粒が細かく、足跡がくっきり残った。こよいの前に、あさひの大きな足跡が続いている。その横に、もう一つの足跡があった。三人のものではない。古い足跡だ。砂に半ば埋もれかけているが、まだ形を保っている。
久遠が義眼で通路を照らした。
蒼光が狭い空間を満たし、壁の表面が浮かび上がった。
手形があった。
壁に押し付けられた大きな手のひらの跡。
石に残った圧力の痕。指の一本一本が、力を込めて石に押し付けられた跡が残っている。
最初の神のものだった。
あさひの手よりも一回り大きい。指が太く、掌の面積が広い。重いものを持ち上げ、長い距離を運んできた手だった。
こよいが手形に自分の手を重ねた。
指先が手形の中に収まる。こよいの手は小さかった。最初の神の手のひらの中に、すっぽりと包まれるような大きさの差がある。
温かかった。
石を通じて、まだ温もりが残っている。何百年——あるいは何千年も前に押し付けられた手の温度が、石の分子の中に焼き付いて消えていない。
巾着が脈打った。
同じ温もりを、森の中の井戸で感じた。
あの脈動と同じだった。名前を守ろうとした者の体温。名前のために手を伸ばした者の熱。
「この人が、ここを通った」
こよいが呟いた。声が通路の壁に反射して、前方と後方に同時に走った。
手形は一つではなかった。
通路に沿って、等間隔で壁に手形が残されている。二歩に一つ。壁に手をつき、一歩進み、もう一歩進んで、また壁に手をつく。そのリズムで、暗い通路を進んだのだ。
暗い通路を、壁に手を当てながら進んだ。
手探りで。
「照明もなしに歩いたのか」
あさひが手形を見た。手形の一つに指を添える。あさひの指は最初の神よりも細いが、同じように壁を押した。石が微かに温まった。
「義眼のような道具もなかったのだろう。自分の手だけが頼りだ」
久遠が前方を照らした。
通路は下に傾斜している。
緩やかだが確実に、地下深くへと続いている。砂の床が少しずつ湿り始め、足を置くたびにじわりと水が滲む。
空気が変わった。
紙の匂いがする。
古い紙と墨の匂い。淀んだ空気の中に、膨大な量の紙が発する匂いが濃縮されている。一冊や二冊の匂いではない。数千、数万の記録が一箇所に集められたときにだけ生じる、紙の密度の匂いだった。
膨大な量の記録が近くにあることを、鼻が教えていた。
こよいは壁の手形を追いながら歩いた。
最初の神が歩いた道を、同じ方向に、同じ暗闇の中で。あの人もこの紙の匂いを嗅いだだろうか。手形を壁に残すたびに、この匂いが近づいてくるのを感じただろうか。
手形の温もりが、一つずつ手のひらを通じて伝わってくる。
何百年も前の体温が、石の中にまだ息づいている。
おたまは、手形から手形へ、二歩に一つの間隔を正確に埋めながら歩いていた。大きな手の跡と、小さな四つ足。二つの歩幅が、同じ道を測っていた。
通路の先から、微かに光が漏れていた。
金色ではない。朱い光だった。紙が燃えているのではない。記録が発する光だ。膨大な名前が一箇所に集まったとき、その密度が光になって滲み出す。
三人は足を止めた。
「今日は、ここまでだ」
久遠が手で制した。朱い光を目前にした退却。誰も反対しなかった。義眼は消耗し、脚は限界に近い。誰にも記録されていない深部へ、疲れ切った身体で降りるのは自殺だ——泥の境の森で学んだことを、三人はまだ覚えていた。
裂け目を出て少し戻った壁際に、久遠が来がけに目をつけていた小屋があった。記録の番小屋——かつて壁の見張りが使ったらしい、石囲いの小さな中継所。今夜はそこで休む。
朱い光は、明日も待っている。八百年待った場所が、一晩で逃げたりはしない。




