第298話 あさひの剣の行方、その後
朝の光が、剣の刃を白く照らした。
あさひは布を解いた。丁寧に、一巻きずつ。星野の焚き火の傍で見たときとは、明らかに様子が違っていた。布の内側に緑色の粉が付着している。結晶が布に触れた場所だけ、繊維の色が変わっていた。
亀裂が塞がっている。
正確には、塞がったのではない。亀裂の底に生えていた緑色の結晶が、罅の隙間を埋めるように広がり、刃の一部になっていた。鉱石と鋼が、継ぎ目なく溶け合っている。境目を指で辿っても、鋼がどこで終わり結晶がどこから始まるのか、分からなかった。
「……こいつ、変わりやがった」
あさひは刃を目の高さに持ち上げた。鋼の銀色の中に、緑の脈が走っている。血管のように、柄から切っ先まで。生きているように見えた。朝の光が脈の一本一本を透過し、緑色が内側から発光しているかのようだった。
久遠が義眼を向けた。蒼光が刃の表面を舐めるように這い、内部構造を映し出す。
「結晶が鋼の分子構造の中に入り込んでいる。星野の地中で鉱石が植物と区別なく存在していた頃の状態に、戻ろうとしているように見える」
「戻る?」
あさひが眉を寄せた。
「武器として鍛える前の状態だ。循環の一部だった頃の。ただし、完全には戻っていない。剣の形を保ったまま、鉱石が目を覚ましている」
あさひは剣を横に構え、空を一度薙いだ。
以前とは違う手応えだった。重さは変わらない。だが振り抜いたとき、空気が切れる音の後に、微かな残響がある。金属の響きではない。弦を弾いたような、柔らかい振動が手首を通じて腕に伝わってきた。指の関節の一つ一つに、振動の余韻が沁み込んでいくのが分かる。
「……鳴ってやがる」
あさひはもう一度振った。今度は下から斬り上げるように。振動が変わった。同じ剣なのに、角度によって音が違う。斬り上げたときの音は高く、薙ぎ払ったときの音は低い。剣が振り方に応えている。
こよいが近づいて、巾着を剣に向けた。神々が脈打った。剣の振動と同じ拍子で。巾着の布が微かに膨らみ、中の神々が剣に引き寄せられるように動いた。
「共鳴してる。神々と、剣が」
あさひは剣を下ろし、刃を見つめた。緑の脈が、先ほどより少しだけ明るくなっている。振ったことで、内部の結晶が活性化したのかもしれない。脈の一本が切っ先の近くで分岐し、枝のように細い線が広がっていた。
「……前のこいつは、ただ切るだけだった」
「今は?」
こよいが訊いた。
あさひは地面に落ちていた石を拾い、剣の上に置いた。刃が石に触れた瞬間、石の表面に細い罅が入った。切れたのではない。石の内部構造が、刃の振動で共鳴して、自分から割れたのだ。
「切ってない。触れただけだ」
あさひが石の断面を見た。断面は滑らかで、力で割ったときの粗さがない。鋭い刃で切った面ともまた違う。石そのものが、ここで分かれたいと思った場所で分かれたような、自然な断面だった。
久遠が目録に走り書きをしている。筆が紙の上を走る音が、静かな空気に小さく響いた。
「理に干渉している。剣が物質の構造に触れて、理の記述を揺らしている。対象を壊すのではなく、対象の成り立ちに触れる剣になった」
「成り立ちに触れるってのは、どういうことだ」
「石を石たらしめている理の記述に、共鳴で触れている。記述が揺れると、結合が解ける。壊すのではなく、ほどく」
あさひは黙って剣を見つめた。長い沈黙の後、鼻で短く息を吐いた。
「壊れたんじゃない。変わったんだ」
久遠が顔を上げた。
「その認識は正しい。鉱石は本来、世界の循環の一部だった。武器として使われていたことの方が、本来の用途から外れていた。今、元に戻りつつある」
「元に戻って、俺に使えるのか」
あさひの声には苛立ちよりも、問いかけの色が強かった。
久遠は義眼を細めた。
「使えるかどうかは、剣が決める。鉱石が目を覚ましている以上、使い手を選ぶ可能性がある」
「俺を選ばなかったら?」
「その剣は、お前の手の中で変わった。お前以外の誰にも反応していない」
あさひは剣を持ち直した。柄を握ると、緑の脈が掌の下で一度だけ脈打った。温かい。星野の地中温度と同じ温もりが、握った手に伝わってくる。
「道具は使い手が決める。前にそう言ったな」
あさひは自分の言葉を思い出していた。
「だが、こいつはもう道具じゃないのかもしれない」
こよいは巾着を胸に抱いたまま、あさひと剣を見ていた。神々の脈動が、剣の緑の脈と同じ拍子で打っている。同じ世界の、同じ循環の欠片。名前を運ぶ神々と、理に触れる剣。
「あさひ」
「なんだ」
「その剣、名前があった方がいいんじゃないかな。変わったなら、新しい名前で」
あさひは刃を空に向けた。朝の光が緑の脈を通り抜け、地面に淡い模様を落とした。鋼と結晶が光を分けて、二つの影が重なっている。
「……まだ早い。こいつが何になるか、まだ分からねえ」
あさひは布を広げ、剣を包み直した。結晶に触れないよう、亀裂の跡を避けるように。だが以前のような緊張はなかった。壊れ物を扱うのではなく、生きているものを扱う手つきだった。
背中に剣を戻したとき、革紐を通じて背骨に微かな振動が伝わった。剣が、あさひの体温に馴染んでいく。
「行くぞ」
あさひはいつもと同じ声で言った。だが歩き出すとき、背中の剣の重さが、少しだけ軽くなった気がした。
変わったのは剣だけではない。剣を握る手も、変わり始めていた。
壁沿いの道は、その先で浅い窪みに沈んでいた。乾いた川の跡が、壁の根元に寄り添うように走っている。水は流れていないが、川底の石は丸く磨かれていた。
川底を歩くと、靴の下で小石が転がる音がした。その音に応じて、あさひの背の剣が、また鳴った。あさひは布を少しだけ開き、結晶の部分を石に近づけた。淡い緑の光が石に移り、石の表面に、ひらがなの一画が浮かんだ。
「名前だ」
こよいが駆け寄った。経蔵の周辺は、地面も石も名前を含んでいる。剣の結晶が、それを読み出せるようになったのだ。こよいは帳面を開き、石を紙の上に置いてみた。何も起きなかった。
「……動かない。この名前、この石にいたいみたい」
「全ての名前が移動を望むわけではない。この場所に在りたい名前もある」
こよいは石を元の場所へ戻した。指先が離れる瞬間、石の中の名前が微かに震えた。行かないで、ではなく、ここにいるよ、と伝える震え方だった。
川の跡を抜けた壁の面に、それはあった。
手形。石に押された、五本の指の跡。こよいの掌より二回りも大きく、深く、力強く、だがどこか優しい。
「最初の神のものだ」
久遠の声が、かすかに震えていた。
「最初の神が、この壁に手を掛けながら歩いている。確かめるように、支えるように。……壁を築いたのが誰かは、まだ分からない。だが少なくともあの神は、この壁を、守るべきものとして扱っている」
あさひの剣が、最も強く鳴った。布越しに結晶の光が透け、刃が壁の一点を差している。手形の並びの先——東の方角を。
「あそこだ」
剣の指す先に、入口がある。おたまはもう、手形の列に沿って歩き出していた。大きな手の跡を、一つずつ、辿るように。




