第297話 記録の薄まり
壁に刻まれた名前が、東へ進むほど薄くなっていった。
最初に気づいたのは、こよいだった。おたまを別にすれば——猫はもうずっと前から、壁との距離を少しずつ広げて歩いていた。
歩きながら、指先を壁に近づける。触れはしない。かざすだけで、名前の温度が指の腹に伝わってくる。西の壁では、その温もりは焚き火の残り火のように確かだった。だが今、指に届く熱は、吐息ほどもない。
「……冷たくなってる」
久遠が足を止め、義眼の蒼光を壁面に沿わせた。刻まれた文字の溝が、浅い。西側の名前は深く力強く刻まれていたのに、この辺りの名前は、砂の上に指で書いたもののように頼りなかった。溝の縁も丸く崩れ、読み取れない文字が増えていく。
「記録が薄まっている」
久遠の声は低かった。
「刻みが浅いんじゃない。刻んだときは同じ深さだったはずだ。……保てなくなっている。壁が名前を抱えていられる力に、限りがある。西側は最初の神の手入れが行き届いていた。東へ行くほど、手が回っていない」
こよいは壁を見上げた。象牙色の巨大な面が、霧の中へ果てなく続いている。この壁の全部に手を入れるなど、一人では、何百年あっても足りないだろう。八百年、通い続けても。
目録にも、同じ兆候が出た。
開いた頁の文字が、壁の薄い区画に近づくたび、墨の色を淡くする。離れれば戻る。壁と目録が、同じ息をしている。
「経蔵の力が、この辺りでは薄いんだ。記録を保つ力そのものが」
「保てなくなったら、どうなるの」
「間引きと同じ場所に行き着く。最初からなかったことになる。……違うのは、誰の悪意もないことだ。ただ、力尽きる」
悪意のない消滅。忘却の海で見た、あの霧に溶けた神と同じ。こよいは唇を結んだ。悪意なら、憎める。力尽きるだけのものは、憎む相手すらいない。
久遠は歩きながら、目録の余白に数字を書き付けていった。百歩ごとに壁の名前の濃さを測り、薄まりの速さを記録していく。義眼の蒼光が、文字の溝の深さを一つずつ拾う。
「西の端を十とすれば、ここは四。この調子なら、東の端は——」
言いかけて、口を閉じた。数字を口にすることが、予言になってしまうのを恐れるように。
こよいは歩きながら、薄れた名前の一つ一つに、指をかざし続けた。読めない名前ばかりだった。それでも、かざせば微かな熱が返る。熱が返るうちは、まだいる。名前を読めなくても、いることだけは、確かめられる。
「ぼくにできること、ないのかな」
「覚えることだ」
久遠は即答した。
「読めなくても、この壁に名前があったことを覚えていろ。壁が力尽きても、覚えている者がいる限り、完全には消えない。忘却の海の深層で、俺たちはそれを学んだはずだ」
一人が忘れても、誰かが覚えている。だから三人いる。あの言葉が、この長い壁の前で、また新しい重さを持った。
あさひが、少し先で立ち止まっていた。
「おい。これを見ろ」
壁の一角に、他と違う名前があった。
溝が深い。新しい。周囲の薄れた名前たちの中で、その一画だけが、彫り直されている。刻んだ手の癖には、もう見覚えがあった。星野の井戸の封印。手紙。二重線。同じ手が、ここにも来ている。
「最初の神だ。薄れた名前を、彫り直して回ってる」
「全部は無理だ。見ろ」
あさひが顎で示した先——彫り直された名前の隣に、途中で止まった溝があった。一画の半ば、刃物を置いた角度のまま、彫りかけで終わっている。
「途中でやめてる。……急に、だ」
何かが、作業の途中の最初の神を動かした。井戸を離れ、彫りかけの名前を置いて。それが、こよいたちの追っている「移動」の始まりなのかもしれなかった。彫りかけの溝は、置き去りにされた道具のように、静かに壁に残っていた。
「呼ばれたのか。逃げたのか」
あさひが彫りかけの溝を見つめた。
「彫りものの途中で手を止める理由なんて、二つしかねえ。呼ばれるか、追われるか」
「三つ目もある」
久遠が静かに言った。
「間に合わないと、悟ったか。……一人で全部を彫り直すより、根本を断ちに行くほうが早い。そう判断したのだとしたら、最初の神が向かった先には、薄まりの原因そのものがある」
誰も、その先を言わなかった。追っている背中が、何と戦いに行ったのか。答えは、追いつけば分かる。
日が傾き、霧が藍色を帯び始めた。
三人は壁の窪みに火を熾した。乾き切った枯木は音を立てて燃え、火の粉が壁面を昇っていく。焚き火の光が壁の名前たちを淡く照らし、薄れた文字が一瞬だけ、濃くなったように見えた。光のせいだと、久遠は言った。そうかもしれない。それでも、こよいは火を少しだけ壁に寄せた。
夕餉は干し飯と白湯だけだった。星野の宿の主が持たせてくれた保存食も、残りが少ない。薪は、壁沿いに点々と転がっていた枯木を、歩きながらあさひが拾い集めたものだった。あさひが袋の底を覗き、何も言わずに口を結んだ。旅の残り時間を、食糧の残りで測る癖が、三人にはもうついていた。
「なあ」と、火を挟んで、あさひが言った。「壁ってのは、守るために建てるもんだ。閉じ込めるためじゃなく」
「同じことの、裏表だ」と久遠。
「違うね」あさひは短く言った。「彫り直しの跡を見ただろ。あれは、直して、撫でて、確かめた手つきだ。ちゃんと保ってるか、崩れてないか。……閉じ込める壁に、あんな触り方はしねえ」
こよいは黙って、火の向こうの壁を見た。守るための壁。八百年、たった一人で確かめ続けた壁。その手の主に、もうすぐ会えるかもしれない。
おたまは、彫りかけの名前の真下で丸くなった。まるでそこが、今夜いちばん守られるべき場所だと知っているように。猫の体温が、石の根元にゆっくりと移っていく。
夜半、こよいはふと目を覚ました。
あさひの背の剣が、布の内側で、淡い緑に光っていた。息をするような明滅。剣は眠っていない。この壁の際で、何かを聴き続けている。
朝が来たら、分かる。
こよいはそう思いながら、巾着を抱き直して目を閉じた。薄れていく名前たちの壁に守られて、火は朝まで、静かに燃えていた。




