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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第8章 砂の境

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241/282

第241話 氷の嘆き

挿絵(By みてみん)


砂の境から灯を辿(たど)り、月の峡の通りへ入り直すと、(こおり)(だん)から聞こえる声が、前とは違っていた。


 前に来たとき——(つき)(きょう)がまだ白い空白と名の雨に覆われていた頃、この通りは足早に通り抜けただけだった。それでも、氷の段の声は聞こえていた。あのときは、ただの(なげ)きだった。

 胸を締めつけるだけの、輪郭(りんかく)を持たない苦しみ。耳の底で(つぶ)れる重さがあるだけで、誰が泣いているのか、何を求めているのか、何ひとつ(つか)めなかった。


 今は違う。

 (なげ)きの奥に、(しん)がある。折れかけた(しん)だが、まだ形を保っている。


 こよいは立ち止まり、灯籠(とうろう)の明滅に合わせて耳を()ませた。足裏に石畳(いしだたみ)の冷えが上がってくる。前に来たときは、この冷えが膝まで届いて身動きを鈍くした。今は足裏で止まる。身体のほうが、ここの温度を知っているからだった。

 (なげ)きの中に、繰り返される音がある。前は波のようにただ押し寄せてきた音が、今は一つひとつの粒に分かれて聞こえる。粒の端に、かたちがある。唇から放たれた痕跡(こんせき)のような、息の丸み。


 呼びかけだ。

 誰かが誰かを呼んでいる。


 言葉には届かない。

 けれど、方向だけは分かる。氷の下から、奥に向かって。前は方向すら掴めなかった。今は声の流れが、石畳(いしだたみ)の隙間を()うようにして足元まで届いている。


 「……前より近い」


 こよいが(つぶや)く。自分の声が灯籠(とうろう)の光に触れて、ほんの一瞬だけ色を帯びた気がした。


 巾着(きんちゃく)の中の神々が脈打った。弱い拍だった。だが前に来たときのような、ただ耐えているだけの脈ではなかった。あのときは巾着(きんちゃく)の中で縮こまり、外の冷気から身を守るように沈黙していた。今は違う。声に応えようとしている拍だった。氷の下の呼びかけに向かって、布越しに何かを返そうとしている。


 (つき)(きょう)の通りは、前と同じ形をしていた。

 灯籠(とうろう)が並び、石畳(いしだたみ)が続き、建物の壁が左右に迫る。灯籠(とうろう)の配置も、壁の(ひび)の数も、記憶と寸分違わない。変わったのは器ではなく、器の中身だった。灯籠(とうろう)の炎は前と同じ高さで揺れているのに、光の届く範囲がわずかに広い。壁と壁の間の暗がりが、ほんの少しだけ浅くなっていた。


 だが空気が違う。

 前は冷たかった。氷室(ひむろ)の底に閉じ込められたような、乾いた冷たさだった。今も冷たいが、冷たさの中に匂いがある。甘い、かすかな匂い。凍った祈りが少しだけ溶けたときの匂いだと思った。鼻の奥が(しび)れるほど(かす)かだが、確かに前にはなかった匂いだ。こよいの肌が粟立(あわだ)つ。冷気のせいではない。溶けたものの気配が、空気ごと身体に染み込んでくる感覚だった。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を開き、義眼(ぎがん)を細めた。蒼光(そうこう)石畳(いしだたみ)の継ぎ目を()めるように走り、灯籠(とうろう)の根元で止まった。


 「聞き取れるようになったんだ。お前のほうが、向こうに近づいてる」


 こよいは首を(かし)げた。


 「ぼくが?」


 「三つの井戸(いど)を通って、神々が変わった。変わったのはお前も同じだ。以前は聞こえなかった音が聞こえる。(なげ)きの奥にある声を拾えるようになっている」


 久遠(くおん)目録(もくろく)(ページ)をなぞった。文字が蒼光(そうこう)に応えて浮き上がり、またすぐに沈む。前に来たときよりも、文字が浮き上がる間隔(かんかく)が短い。まるで(ページ)のほうも、ここの空気に反応しているかのようだった。


 「だが気をつけろ。聞こえるということは、向こうからも見えているということだ」


 あさひが剣の(つか)を押さえたまま、通りの奥を見る。目は細められ、まばたきの回数が減っていた。前に来たときも同じ姿勢を取っていた。だが今は指の位置が違う。(つか)を握るのではなく、(つば)に触れている。いつでも抜けるが、まだ抜かない。そういう間合いだった。


 「声にするな。ここで名前を呼ぶと、内側の名まで持っていかれる」


 久遠(くおん)が短く(うなず)いた。目録(もくろく)を脇に挟み、空いた手で義眼(ぎがん)の縁を押さえた。蒼光(そうこう)が一瞬だけ強まり、すぐに絞られる。見過ぎるな、という自制だった。


 こよいは唇を結んだ。

 (のど)の奥で、名前の形が何度も結ばれては解ける。呼びたい。氷の下にいる誰かの名前を、声にして届けたい。前に来たときは、呼びたいとすら思えなかった。聞こえなかったから。聞こえるようになった今、呼ばずにいることのほうがずっと苦しい。


 だが呼べない。

 呼んだ瞬間に、こよい自身の名前も持っていかれる。


 唇を()んだ。痛みで衝動を押さえた。下唇に歯の跡が残り、じんと熱が広がる。


 巾着(きんちゃく)が温かくなった。

 神々が、呼ばなくてもいいと言っているように感じた。声にしなくても、ここにいることは伝わっている。そういう脈だった。布越しの温もりが(てのひら)から手首へ上がり、こよいの呼吸をゆっくりと落ち着かせた。


 「行こう」


 あさひが先に歩き出した。


 「なら、行けるところまで行く」


 短い言葉だけを通りに落とし、振り返らなかった。靴底が石畳(いしだたみ)を打つ音は硬く、迷いがない。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いて続いた。歩き出した瞬間、灯籠(とうろう)の炎がわずかに揺れた。風はない。三人が動いたことに、通りそのものが反応したように見えた。

 久遠(くおん)目録(もくろく)を閉じ、後ろから歩く。三人の足音が灯籠(とうろう)の間を縫い、冷えた壁に反響した。前に来たときは反響が硬く跳ね返るだけだった。今は壁が音を一拍だけ含んでから返す。石の温度が変わったのか、それとも通りが三人の足音を覚えているのか。


 おたまは(こおり)(だん)のいちばん近くを、平気な顔で歩いた。(なげ)きは、猫の足元でだけ、少し静かになった。


 (こおり)(だん)(なげ)きは続いていた。

 だがこよいの耳には、(なげ)きの底に、かすかな期待が混ざっているのが聞こえた。


 誰かが来た、と。

 前にも来た子が、また来た、と。


 前に来たときは、(なげ)きしか聞こえなかった。帰れ、と言われているのだと思った。ここは死者の場所だ、生きている者が踏み込む場所ではない、と。だが今聞こえるのは拒絶ではなかった。待っていた、という響きだった。何千年も凍りついていた声が、こよいの耳を見つけて、ほんの少しだけ溶けている。


 こよいは心の中で答えた。

 声にはしなかった。唇も動かさなかった。

 ただ、巾着(きんちゃく)を握る手に少しだけ力を込めた。


 神々が一度、強く脈打った。

 巾着(きんちゃく)の布が内側から押され、すぐに戻る。その一拍が、氷の下の声と同じ間隔(かんかく)で打たれたことに、こよいだけが気づいていた。

 それだけで十分だった。

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