第241話 氷の嘆き
砂の境から灯を辿り、月の峡の通りへ入り直すと、氷の段から聞こえる声が、前とは違っていた。
前に来たとき——月の峡がまだ白い空白と名の雨に覆われていた頃、この通りは足早に通り抜けただけだった。それでも、氷の段の声は聞こえていた。あのときは、ただの嘆きだった。
胸を締めつけるだけの、輪郭を持たない苦しみ。耳の底で潰れる重さがあるだけで、誰が泣いているのか、何を求めているのか、何ひとつ掴めなかった。
今は違う。
嘆きの奥に、芯がある。折れかけた芯だが、まだ形を保っている。
こよいは立ち止まり、灯籠の明滅に合わせて耳を澄ませた。足裏に石畳の冷えが上がってくる。前に来たときは、この冷えが膝まで届いて身動きを鈍くした。今は足裏で止まる。身体のほうが、ここの温度を知っているからだった。
嘆きの中に、繰り返される音がある。前は波のようにただ押し寄せてきた音が、今は一つひとつの粒に分かれて聞こえる。粒の端に、かたちがある。唇から放たれた痕跡のような、息の丸み。
呼びかけだ。
誰かが誰かを呼んでいる。
言葉には届かない。
けれど、方向だけは分かる。氷の下から、奥に向かって。前は方向すら掴めなかった。今は声の流れが、石畳の隙間を這うようにして足元まで届いている。
「……前より近い」
こよいが呟く。自分の声が灯籠の光に触れて、ほんの一瞬だけ色を帯びた気がした。
巾着の中の神々が脈打った。弱い拍だった。だが前に来たときのような、ただ耐えているだけの脈ではなかった。あのときは巾着の中で縮こまり、外の冷気から身を守るように沈黙していた。今は違う。声に応えようとしている拍だった。氷の下の呼びかけに向かって、布越しに何かを返そうとしている。
月の峡の通りは、前と同じ形をしていた。
灯籠が並び、石畳が続き、建物の壁が左右に迫る。灯籠の配置も、壁の罅の数も、記憶と寸分違わない。変わったのは器ではなく、器の中身だった。灯籠の炎は前と同じ高さで揺れているのに、光の届く範囲がわずかに広い。壁と壁の間の暗がりが、ほんの少しだけ浅くなっていた。
だが空気が違う。
前は冷たかった。氷室の底に閉じ込められたような、乾いた冷たさだった。今も冷たいが、冷たさの中に匂いがある。甘い、かすかな匂い。凍った祈りが少しだけ溶けたときの匂いだと思った。鼻の奥が痺れるほど微かだが、確かに前にはなかった匂いだ。こよいの肌が粟立つ。冷気のせいではない。溶けたものの気配が、空気ごと身体に染み込んでくる感覚だった。
久遠が目録を開き、義眼を細めた。蒼光が石畳の継ぎ目を舐めるように走り、灯籠の根元で止まった。
「聞き取れるようになったんだ。お前のほうが、向こうに近づいてる」
こよいは首を傾げた。
「ぼくが?」
「三つの井戸を通って、神々が変わった。変わったのはお前も同じだ。以前は聞こえなかった音が聞こえる。嘆きの奥にある声を拾えるようになっている」
久遠は目録の頁をなぞった。文字が蒼光に応えて浮き上がり、またすぐに沈む。前に来たときよりも、文字が浮き上がる間隔が短い。まるで頁のほうも、ここの空気に反応しているかのようだった。
「だが気をつけろ。聞こえるということは、向こうからも見えているということだ」
あさひが剣の柄を押さえたまま、通りの奥を見る。目は細められ、まばたきの回数が減っていた。前に来たときも同じ姿勢を取っていた。だが今は指の位置が違う。柄を握るのではなく、鍔に触れている。いつでも抜けるが、まだ抜かない。そういう間合いだった。
「声にするな。ここで名前を呼ぶと、内側の名まで持っていかれる」
久遠が短く頷いた。目録を脇に挟み、空いた手で義眼の縁を押さえた。蒼光が一瞬だけ強まり、すぐに絞られる。見過ぎるな、という自制だった。
こよいは唇を結んだ。
喉の奥で、名前の形が何度も結ばれては解ける。呼びたい。氷の下にいる誰かの名前を、声にして届けたい。前に来たときは、呼びたいとすら思えなかった。聞こえなかったから。聞こえるようになった今、呼ばずにいることのほうがずっと苦しい。
だが呼べない。
呼んだ瞬間に、こよい自身の名前も持っていかれる。
唇を噛んだ。痛みで衝動を押さえた。下唇に歯の跡が残り、じんと熱が広がる。
巾着が温かくなった。
神々が、呼ばなくてもいいと言っているように感じた。声にしなくても、ここにいることは伝わっている。そういう脈だった。布越しの温もりが掌から手首へ上がり、こよいの呼吸をゆっくりと落ち着かせた。
「行こう」
あさひが先に歩き出した。
「なら、行けるところまで行く」
短い言葉だけを通りに落とし、振り返らなかった。靴底が石畳を打つ音は硬く、迷いがない。
こよいは巾着を胸に抱いて続いた。歩き出した瞬間、灯籠の炎がわずかに揺れた。風はない。三人が動いたことに、通りそのものが反応したように見えた。
久遠が目録を閉じ、後ろから歩く。三人の足音が灯籠の間を縫い、冷えた壁に反響した。前に来たときは反響が硬く跳ね返るだけだった。今は壁が音を一拍だけ含んでから返す。石の温度が変わったのか、それとも通りが三人の足音を覚えているのか。
おたまは氷の段のいちばん近くを、平気な顔で歩いた。嘆きは、猫の足元でだけ、少し静かになった。
氷の段の嘆きは続いていた。
だがこよいの耳には、嘆きの底に、かすかな期待が混ざっているのが聞こえた。
誰かが来た、と。
前にも来た子が、また来た、と。
前に来たときは、嘆きしか聞こえなかった。帰れ、と言われているのだと思った。ここは死者の場所だ、生きている者が踏み込む場所ではない、と。だが今聞こえるのは拒絶ではなかった。待っていた、という響きだった。何千年も凍りついていた声が、こよいの耳を見つけて、ほんの少しだけ溶けている。
こよいは心の中で答えた。
声にはしなかった。唇も動かさなかった。
ただ、巾着を握る手に少しだけ力を込めた。
神々が一度、強く脈打った。
巾着の布が内側から押され、すぐに戻る。その一拍が、氷の下の声と同じ間隔で打たれたことに、こよいだけが気づいていた。
それだけで十分だった。




