第242話 約束の裂け目
月の峡の通りの果てに、裂け目があった。地面が割れている。
幅は人一人分。縁の石は磨り減って丸みを帯び、割れてから途方もない時間が経っていることを伝えていた。石の表面に細かな塩の結晶が浮いて、指先で触れるとざらついた。
覗き込むと、底は見えなかった。
裂け目の壁面から、微かな光が漏れている。
名前の光ではなかった。もっと古い、鈍い光だった。井戸の底で見た名前の蒼白い輝きとは違う。琥珀に近い、くすんだ暖色が壁の岩肌に染みついている。
「井戸じゃないな」
あさひが裂け目の縁に片膝をついて言った。指で縁の石を一つ弾き、落ちていく音を聞いた。音は長く続き、やがて壁面に吸い込まれるように途切れた。
「井戸の形をしていない。だが、機能は同じだ。名前の保管場所。ただし、ここにあるのは——」
久遠が義眼で裂け目の内部を走査した。
蒼光が壁面を照らす。琥珀色の光と蒼い走査光が交差し、壁面の凹凸に細かな影が生まれた。
「名前じゃない」
「名前じゃないなら、何だ」
「約束だ」
久遠の声に、わずかな戸惑いが混じった。義眼を細め、走査の結果をもう一度確かめるように壁面を見つめた。
こよいが裂け目の縁にしゃがんだ。
壁面の光を見つめた。
光は文字の形をしていなかった。
丸い。
一つひとつが小さな球体のように光っている。
球体の中に、何かが詰まっている。押し込められたのではなく、自ら丸まって眠っているような、そういう静けさだった。無数の球体が壁面に埋まり、裂け目の奥へ向かってどこまでも続いている。
「約束って、どういうこと」
「名前が凍結される前に、神が残したものだ。経蔵の原本に記載があった。最初に名前を凍結した神は、凍結と引き換えに約束を一つ残した。その約束が、ここに保管されている」
久遠の声が静かになった。
「凍結は罰ではなかった。取引だった。名前を差し出す代わりに、約束を保管してもらう。名前は失われても、約束だけは残る」
こよいの胸の奥で、何かが軋んだ。罰だと思っていた。名前を奪われることは、消されることだと。けれど壁面の球体は罰の色をしていなかった。冷たくもなければ、硬くもない。ただ静かに、待っている。
「何の約束」
久遠は首を振った。
「約束の内容は、約束した本人にしか読めない」
こよいは裂け目に手を差し入れた。
壁面の光に指先が触れた瞬間、温もりが走った。
井戸の氷とは全く違う感触だった。
柔らかくて、温かくて、少し悲しい。
指の腹に、球体の丸みが伝わる。表面はなめらかで、水飴のようにわずかに粘る。掌を当てると、体温と同じくらいの熱がゆっくり返ってきた。凍った名前に触れたときの刺すような痛みはない。代わりに、胸の底にある古い記憶を揺さぶられるような、鈍い切なさが広がった。目の奥が熱くなる。
巾着が脈打った。
今度は震えではなかった。
呼応していた。
裂け目の中の約束と、巾着の中の神々が、互いを認識している。巾着の布越しに雨の神の温度が上がり、こよいの腰のあたりがじんわりと温かくなった。
「……知ってる」
こよいが呟いた。
指先を通して、何かが流れ込んできた。
言葉ではない。
感情に近いもの。名前を持っていた頃の、神たちの記憶の残滓。
必ず戻る。必ず取り戻す。だから今は、預ける。
そういう覚悟の温もりだった。預けるという行為の中にある、手放すこととは違う強さ。帰る場所を信じているからこそ、今ここに置いていける——その信頼の熱が、指先から腕を伝い、胸の真ん中まで届いた。
こよいは手を引いた。
目に涙が溜まっていた。壁面の琥珀色が涙の膜を通して滲み、視界が温かい色に染まった。
「あの子たち、帰るつもりだったんだ。名前を手放したんじゃない。預けたんだ。いつか取り返しに来るつもりで」
「だが、取り返しに来る者はいなかった」
久遠が息と一緒に言った。
「約束だけが残り、名前は凍結されたまま、何千年も経った。迎えを待つ約束が、ずっとここで光り続けている」
おたまも、縁から裂け目を覗き込んだ。すると、壁面の球体のいくつかが、ほんのわずかに明るさを増した。猫が顔を引くと、光は元に戻った。誰も、何も言わなかった。
あさひが立ち上がった。
裂け目を見下ろし、拳を握った。
「だったら、俺たちが取りに来た。それでいいだろう」
久遠は答えなかった。
目録を開き、裂け目の座標を記録した。
約束の保管場所。
名前の凍結を解くためだけでなく、約束を返すためにも、この場所を覚えておく必要があった。頁の上で座標の数字が蒼く光り、すぐに紙に沈んだ。
こよいは巾着を胸に抱いた。
神々の脈動が穏やかになっていた。
裂け目の中の約束に触れたことで、神々の中の何かが少しだけ解けた気がした。凍っていたのではない。待っていたのだ。約束の温もりに再び触れるのを、ずっと。
月の峡の岩壁に、風が吹いた。裂け目の中の光が、風に揺れて瞬いた。
潮の匂いが混じっている。峡谷の奥から、海に近い匂いが流れてきていた。塩気を含んだ湿った風が、こよいの頬に残る涙の跡をゆっくり乾かしていく。
久遠は目録を閉じ、匂いの方角を確かめた。
「……この先に、まだ何かある」
こよいは涙を拭い、巾着を腰に結び直した。雨の神の温もりが、さっきより少しだけ強くなっている。約束に触れたからだ。預けた側の覚悟が、神々の中で火種のように灯っている。
あさひが裂け目を跨ぎ、先に歩き出した。振り返らずに、片手だけを後ろに差し出す。
こよいはその手を見つめた。裂け目の奥で、約束の光が静かに瞬いている。待っていてね、と心の中で呟き、あさひの手を追いかけた。




