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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第8章 砂の境

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242/250

第242話 約束の裂け目

挿絵(By みてみん)


(つき)(きょう)の通りの果てに、()()があった。地面が割れている。


 幅は人一人分。(ふち)の石は()り減って丸みを帯び、割れてから途方もない時間が経っていることを伝えていた。石の表面に細かな塩の結晶が浮いて、指先で触れるとざらついた。


 (のぞ)き込むと、底は見えなかった。

 ()()の壁面から、微かな光が漏れている。

 名前の光ではなかった。もっと古い、鈍い光だった。井戸(いど)の底で見た名前の蒼白(あおじろ)い輝きとは違う。琥珀(こはく)に近い、くすんだ暖色が壁の岩肌(いわはだ)に染みついている。


 「井戸(いど)じゃないな」


 あさひが()()(ふち)片膝(かたひざ)をついて言った。指で(ふち)の石を一つ(はじ)き、落ちていく音を聞いた。音は長く続き、やがて壁面に吸い込まれるように途切れた。


 「井戸(いど)の形をしていない。だが、機能は同じだ。名前の保管場所。ただし、ここにあるのは——」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)()()の内部を走査(そうさ)した。

 蒼光(そうこう)が壁面を照らす。琥珀(こはく)色の光と蒼い走査光が交差し、壁面の凹凸(おうとつ)に細かな影が生まれた。


 「名前じゃない」


 「名前じゃないなら、何だ」


 「約束だ」


 久遠(くおん)の声に、わずかな戸惑いが混じった。義眼(ぎがん)を細め、走査の結果をもう一度確かめるように壁面を見つめた。


 こよいが()()(ふち)にしゃがんだ。

 壁面の光を見つめた。


 光は文字の形をしていなかった。

 丸い。


 一つひとつが小さな球体のように光っている。

 球体の中に、何かが詰まっている。押し込められたのではなく、自ら丸まって眠っているような、そういう静けさだった。無数の球体が壁面に埋まり、()()の奥へ向かってどこまでも続いている。


 「約束って、どういうこと」


 「名前が凍結(とうけつ)される前に、神が残したものだ。経蔵(きょうぞう)の原本に記載があった。最初に名前を凍結(とうけつ)した神は、凍結(とうけつ)と引き換えに約束を一つ残した。その約束が、ここに保管されている」


 久遠(くおん)の声が静かになった。


 「凍結(とうけつ)(ばつ)ではなかった。取引(とりひき)だった。名前を差し出す代わりに、約束を保管してもらう。名前は失われても、約束だけは残る」


 こよいの胸の奥で、何かが(きし)んだ。罰だと思っていた。名前を奪われることは、消されることだと。けれど壁面の球体は罰の色をしていなかった。冷たくもなければ、硬くもない。ただ静かに、待っている。


 「何の約束」


 久遠(くおん)は首を振った。


 「約束の内容は、約束した本人にしか読めない」


 こよいは()()に手を差し入れた。

 壁面の光に指先が触れた瞬間、温もりが走った。

 井戸(いど)の氷とは全く違う感触だった。


 柔らかくて、温かくて、少し悲しい。


 指の腹に、球体の丸みが伝わる。表面はなめらかで、水飴(みずあめ)のようにわずかに粘る。(てのひら)を当てると、体温と同じくらいの熱がゆっくり返ってきた。凍った名前に触れたときの刺すような痛みはない。代わりに、胸の底にある古い記憶を揺さぶられるような、鈍い切なさが広がった。目の奥が熱くなる。


 巾着(きんちゃく)が脈打った。

 今度は震えではなかった。


 呼応していた。


 ()()の中の約束と、巾着(きんちゃく)の中の神々が、互いを認識している。巾着(きんちゃく)の布越しに雨の神の温度が上がり、こよいの腰のあたりがじんわりと温かくなった。


 「……知ってる」


 こよいが(つぶや)いた。


 指先を通して、何かが流れ込んできた。

 言葉ではない。


 感情に近いもの。名前を持っていた頃の、神たちの記憶の残滓(ざんし)


 必ず戻る。必ず取り戻す。だから今は、預ける。


 そういう覚悟(かくご)の温もりだった。預けるという行為の中にある、手放すこととは違う強さ。帰る場所を信じているからこそ、今ここに置いていける——その信頼の熱が、指先から腕を伝い、胸の真ん中まで届いた。


 こよいは手を引いた。

 目に涙が溜まっていた。壁面の琥珀(こはく)色が涙の(まく)を通して(にじ)み、視界が温かい色に染まった。


 「あの子たち、帰るつもりだったんだ。名前を手放したんじゃない。預けたんだ。いつか取り返しに来るつもりで」


 「だが、取り返しに来る者はいなかった」


 久遠(くおん)が息と一緒に言った。


 「約束だけが残り、名前は凍結(とうけつ)されたまま、何千年も経った。迎えを待つ約束が、ずっとここで光り続けている」


 おたまも、(ふち)から()()(のぞ)き込んだ。すると、壁面の球体のいくつかが、ほんのわずかに明るさを増した。猫が顔を引くと、光は元に戻った。誰も、何も言わなかった。


 あさひが立ち上がった。


 ()()を見下ろし、(こぶし)を握った。


 「だったら、俺たちが取りに来た。それでいいだろう」


 久遠(くおん)は答えなかった。


 目録(もくろく)を開き、()()座標(ざひょう)を記録した。

 約束の保管場所。


 名前の凍結(とうけつ)を解くためだけでなく、約束を返すためにも、この場所を覚えておく必要があった。(ページ)の上で座標(ざひょう)の数字が蒼く光り、すぐに紙に沈んだ。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。

 神々の脈動が穏やかになっていた。

 ()()の中の約束に触れたことで、神々の中の何かが少しだけ解けた気がした。凍っていたのではない。待っていたのだ。約束の温もりに再び触れるのを、ずっと。


 (つき)(きょう)の岩壁に、風が吹いた。()()の中の光が、風に揺れて(またた)いた。


 潮の匂いが混じっている。峡谷(きょうこく)の奥から、海に近い匂いが流れてきていた。塩気を含んだ湿った風が、こよいの(ほお)に残る涙の跡をゆっくり乾かしていく。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を閉じ、匂いの方角を確かめた。


 「……この先に、まだ何かある」


 こよいは涙を(ぬぐ)い、巾着(きんちゃく)を腰に結び直した。雨の神の温もりが、さっきより少しだけ強くなっている。約束に触れたからだ。預けた側の覚悟(かくご)が、神々の中で火種のように(とも)っている。


 あさひが()()(また)ぎ、先に歩き出した。振り返らずに、片手だけを後ろに差し出す。


 こよいはその手を見つめた。()()の奥で、約束の光が静かに(またた)いている。待っていてね、と心の中で(つぶや)き、あさひの手を追いかけた。

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