第239話 凍結の真偽
列車の中で、誰もしばらく話さなかった。経蔵で読んだ記録が、車内の空気を重くしていた。
吊り革の鎖が揺れるたびに、鉄の軋みが床から骨に伝わってくる。窓の外を光の粒が雪のように流れているが、三人の目には入っていなかった。こよいが最初に口を開いた。
「嘘だよ」
久遠が顔を上げた。義眼の蒼光が一瞬だけ鋭くなり、すぐに抑えられた。
「嘘じゃない。原本に書かれていた」
「原本が嘘なんだよ。だって、あの子たちが自分から名前を捨てるわけない。あったかいもん。会いたがってるもん。帰りたがってるもん」
こよいの声が車内に張りつめた。巾着を膝の上に載せた両手に力がこもり、指の関節が白くなっている。言葉が身体の奥から出ている。頭で考えたのではなく、掌に触れている熱がそのまま声になった。
神々は震えたまま動かない。
だが温もりは消えていなかった。布越しに伝わる微かな熱が、掌の皮膚をじんと押している。冷えた鉄の車内で、そこだけが別の季節だった。凍結された名前が、それでもこんなに温かいのだ。自分から凍ったものが、帰りたいと熱を出すだろうか。
久遠は目録を閉じたまま膝に載せていた。革の表紙に指を置き、視線を窓の外へ向けたまま言葉を組み立てる。
「原本の記録が正しいとすれば、最初の凍結は自発的なものだった。だが、その後に続いた大量凍結が同じ理由で行われたかは分からない。最初の一柱が選んだことと、後に続いた何千何万の凍結は、別のものかもしれない」
「別のもの」
こよいが繰り返す。その声には疑問ではなく、拒絶に近い硬さがあった。膝の上の巾着を無意識に引き寄せ、背筋が伸びた。
「最初は志願だった。だが、それが前例になった。観測者が前例を根拠にして、強制的な凍結を始めた可能性がある」
久遠の目が細くなった。分析しているのだ。記録の行間を読み、論理の筋を辿り、矛盾を探している。こよいの感情を否定しているのではない。感情では動かせない仕組みがあることを、言わなければならないと思っている。列車が軋み、連結部の金属が低く鳴った。三人の間に落ちた沈黙を、鉄の音が埋めた。
あさひが腕を組んだまま言った。
「どっちにしろ、今苦しんでるのは事実だ。理由なんか後でいい。先に助ける」
「助けるためには理由を知る必要がある」
久遠の声が硬くなった。あさひの方を見ずに、目録の表紙を指先で叩く。
「志願ならば、凍結を解除するには本人の意志が要る。強制ならば、命令系統を断てばいい。手順がまるで違う」
あさひの顎が僅かに引かれた。反論ではない。噛み締めている。言葉で返せないとき、あさひはいつもそうする。だが組んだ腕の指先が、二の腕に食い込んでいた。正しさに苛立っているのではない。正しさが、すぐに手を出せない理由になることに耐えている。
こよいは巾着の上に手を置いた。
震えている。
温かいのに、震えている。
声にならない振動が、布を通して指の腹に届く。怯えているのか、訴えているのか、こよいには区別がつかなかった。ただ、震えの周期が心臓の鼓動より遅い。生き物の恐怖ではなく、もっと深いところで揺れている。
「ねえ」
巾着に話しかけた。
「本当のこと、教えて」
神々は答えなかった。
震えが少しだけ小さくなった。
それが答えだったのかもしれない。
おたまが座席から降り、こよいの膝——巾着の隣に、身体を割り込ませた。震えの残る布袋に寄りかかり、丸くなる。神々の震えが、猫の重みの下で、ゆっくりとほどけていった。
三人とも黙った。列車の車輪が継ぎ目を踏むたびに、座席が小さく跳ねる。その振動だけが、時間が流れていることを教えていた。
久遠が息を吐いた。小さく、だが意図的に。結論を出すのではなく、保留する音だった。答えを急がない。だが手を止めもしない。それが久遠の戦い方だった。
窓の外の風景が変わった。
光の粒が消え、代わりに暗い岩肌が見え始めた。
山だった。
列車は山の間を縫うように走っている。
岩肌には何も刻まれていない。
名前も文字も光もない。
ただの石だった。それが、不思議と怖くなかった。
「月の峡に入る」
久遠が短く言った。
「ここは理の制御が最も届きにくい場所だ。観測者の目も薄い。だから、最も古い記録が残っている」
「最も古い」
「名前の凍結が始まる前の記録だ。始まりの前に何があったのかが、ここにある」
列車が速度を落とした。車輪と鉄路の間の音が変わり、甲高い金属音が低く長い唸りに変わった。
岩肌が両側からじりじりと迫り、空が狭くなった。
峡谷の底を走っている。
こよいは窓の外の暗い岩を見つめた。
ここには名前がない。
凍結もされていない。
名前が存在する以前の場所だった。名前がなければ、凍結もない。志願も強制もない。その手前の、まだ何も選ばれていない時間が、岩の表面に黙って残っている。
巾着の震えが、ふっと止まった。
神々は沈黙した。
列車が止まった。最後の揺れが消えると、車内に奇妙な静寂が降りた。吊り革の鎖も鳴らない。扉が開き、岩と土の匂いが車内を満たした。光はあるのに、輪郭が掴めない。峡谷の壁が光を吸い込んでいるかのようだった。
久遠は目録を押さえ、頁を開かないまま革の表紙に指を滑らせた。
「……ここでは、読むより先に聞け。岩が記録を覚えている」
あさひが先に降りた。迷いのない足取りだった。靴底が砂利を踏む音が、峡谷に跳ね返って何度も重なった。
こよいは巾着を胸に抱えたまま、列車を降りた。足元の石が冷たい。冷たさが靴底を突き抜けて、足裏から脛へと昇ってくる。だが、その冷たさの中に、どこか懐かしい重さがあった。名前をつける前の、ただの重さ。何も書かれていない石の重さが、逆にこよいの胸を少しだけ楽にした。
三人は無言で峡谷の奥へ歩き始めた。足音が三つ、岩壁の間で重なり、ずれ、また重なる。音を立てない四つ足が、その先を歩いていた。列車の鉄の音が後ろで小さくなり、やがて岩と風の音だけが残った。




