第238話 しおりの筆跡、ふたたび
霧列車が揺れるたび、吊り革の鎖が小さく鳴った。鎖と鎖のあいだを、湿った空気が通り抜けていく。車内には古い真鍮の匂いが沈んでいた。座席の布地は擦り切れ、繊維の奥から黴に似た時間の重みが滲んでいる。
こよいは座席の背に身を預け、掌の中の温もりを確かめる。巾着の布越しに伝わる神々の体温は、こよい自身の脈と区別がつかないほど近かった。
神々は静かだ。静かすぎて、逆に不安になる。眠っているのか、黙っているのか。巾着の紐を軽く引いてみたが、中から返事はなかった。
久遠は目録を膝に置いたまま、頁をめくらなかった。義眼の蒼光も落としている。瞼の下に影が溜まり、頬の輪郭がいつもより薄く見えた。
「……今は読むな」
久遠が目を逸らさずに言った。
「経蔵の中の文字は、外に出ても追ってくる。読めば読んだ分だけ、こっちの輪郭が削られる」
あさひが窓際に立ち、外を見た。窓枠に添えた指先が、微かに白い。握りすぎているのだ。
「じゃあ、何を頼りに走る」
「……残り香だ」
久遠が短く答えた。
こよいは視線を車内へ移した。古い掲示板が壁に掛かっている。時刻表。路線図。剥がれかけた紙片。木枠に押し込まれた告知の紙は黄ばみ、角が丸くなっている。列車の揺れで少しずつずれたのか、画鋲の穴が二つ三つ空いていた。その中に、一枚だけ、筆圧の強い字があった。
墨じゃない。鉛筆だ。紙は他の掲示物と違って白かった。最近ここに差し込まれたものだ。
灰色の線が紙の表面に浅く乗っている。けれど、画のひとつひとつが確かで、急いで書いたはずなのに字の骨格が崩れていない。こよいの指先がかすかに痺れた。胸の奥で、何かが跳ねるように鳴った。しおりの字だ。小さく丸い癖。線の端で、必ず一度止まる癖。句点の打ち方まで、あの子そのものだった。
「……しおりさん」
声にした瞬間、こよいは慌てて口を閉じた。唇の裏側で名前の余韻が震えている。それでも書かれた字は、消えなかった。
『声に出すな。読むなら、息で読め。月の峡へ。そこは監視が薄い。でも、薄いからこそ、落ちる前に手を繋げ。あさひに先を行かせるな。久遠に全部背負わせるな。』
文字の並びに、しおりの呼吸が残っていた。一文が短く区切られているのは、書く時間がなかったからだ。それでも伝える言葉を削らなかった。誰を心配しているのかが、行間の詰め方に出ている。
こよいは、紙片の端をそっと撫でた。鉛筆の跡が、紙の繊維を少しだけ凹ませている。指の腹がその溝を辿ると、しおりの筆圧がそのまま肌に伝わってきた。強い字だった。逃げながら書いた字とは思えないほど、一画ずつに迷いがない。
しおりはいつも、急いでいるのに丁寧だった。逃げながらでも、伝えるべきところだけは崩さない。文字の大きさが揃っている。行間も一定だ。紙の端ぎりぎりまで書き込んでいるのに、最後の一文字が枠からはみ出していない。だからこの字は、残る。
「……どうして、そこまでして……」
こよいは声を落とし、言葉の続きを喉の奥で飲み込んだ。聞かれたくないのは観測者じゃない。自分自身の弱さだ。目の奥が熱くなり、視界がぼやけた。紙片の文字が滲む前に、瞬きで押し戻す。
こよいは紙片を指で押さえた。紙が湿っている。霧のせいだけじゃない。誰かが、最近触れたみたいに。紙の端に残る僅かな水分が、こよいの体温で温まっていく。鉛筆の粉が指先にうっすらと移った。灰色の粉が、こよいの指紋の溝に入り込む。
「……見つけた」
こよいが言う。久遠が顔を上げ、目だけで問う。こよいは掲示板を指差した。あさひが近づき、紙片を見て、眉をひそめる。
「……あいつ、まだ道を残してるのか」
久遠の指先が、目録の表紙を軽く叩いた。革の表紙に爪が当たる微かな音が、車内の沈黙に落ちた。
「……筆跡は、記録より遅い。だから残る」
こよいは頷いた。
「行こう。月の峡へ」
しおりの言葉を、今度は胸の内側にしまった。あさひが腕を組んだまま言った。
「手を繋げ、ってのは……そういうことか」
久遠が視線だけで頷く。
「監視が薄い場所は、理の地面も薄い。だからこそ落ちる。落ちると、助けを呼ぶ声が出る。声が出れば、拾われる」
こよいは息を呑み、紙片を掲示板に戻した。持ち歩けば奪われる。置いておけば、また誰かが読む。それでいい。指を離すとき、紙の端が小さく揺れた。鉛筆の字がまだそこにある。それだけで十分だった。
おたまが掲示板の下で伸び上がり、紙の匂いを一度だけ嗅いだ。それから、列車の後方——霧の奥へ、長いこと目を向けていた。猫の知っている誰かの匂いが、そこに残っているかのように。
霧列車が、ひとつ大きく軋んだ。行き先を告げる鐘の代わりに、鉄の音が鳴る。車体の振動が足裏から膝へ昇り、こよいの背骨をゆっくりと揺らした。それは「まだ走れる」という報せであり、「もう戻れない」という報せでもあった。
三人の影が同じ向きに揃うまで、誰も言葉を出さなかった。窓硝子に映るこよいの顔が、霧の白さに溶けかけている。
こよいは巾着を押さえたまま、神々の脈を音として聞いた。穏やかな拍動が、しおりの字の凹みと同じ強さで、掌を押し返してくる。
「……筆跡は、声にしなくても、残るんだね」
久遠が小さく頷いた。
「記録は消せる。だが、紙の凹みは消せない。物理に刻まれたものは、理の管轄外だ」
あさひが窓の外に目を向けた。霧の向こうに、岩肌がうっすらと見え始めている。列車が峡谷に近づいている気配だった。
こよいは目を閉じ、しおりの字を胸の中でもう一度なぞった。凹みの深さが、指に残っている。あの字を書いたとき、しおりは何を見ていたのだろう。同じ座席に座って、同じ鎖の音を聞いて、同じ霧の中を走っていたのだろうか。
列車の軋みが小さくなり、車内が静かになった。天井の隅で、鎖がゆっくりと振り子のように揺れている。その音だけが、時を刻むように鳴り続けている。こよいの指先には、まだ鉛筆の粉が残っていた。




