第235話 経蔵の入口
列車が余白の灯の停車場を離れた。
窓の外に、銀白色の柱がしばらく見えていた。
列車が進むにつれて柱は細くなり、やがて一本の線になり、そして霧に消えた。
消えた瞬間、車内に音が完全に戻った。
行灯の火が揺れる音、車輪が軌道を噛む音、座席の軋む音。
こよいは耳を澄ませた。
余白の灯の無音がまだ体の中に残っている。
音のない場所に立つと、自分の輪郭が曖昧になる感覚があった。鼓膜が自分の内側の音ばかり拾い、心臓の拍動が他人のもののように聞こえた。
音が戻って、やっと自分の体に戻れた気がした。
「経蔵まで、どのくらいかかる」
あさひが窓の外を見ながら訊いた。硬い顎の線が行灯の光を受けて影をつくっている。
「この路線なら一刻もかからない。余白の灯の真下を迂回して、経蔵の停車場に出る」
久遠が目録を膝に置いたまま答えた。
義眼は消している。
目を閉じて、体力を温存していた。薄い瞼の奥で義眼の硝子が車輪の振動に合わせて微かに鳴っている。
こよいは巾着の中の神々に意識を向けた。
余白の灯の近くで怯えていた神々が、少しずつ落ち着きを取り戻している。
脈動が穏やかになり、温もりが指先に戻ってきた。
「久遠くん。これから行く経蔵って、退蔵室のあった東棟とは違うの」
「あそこは縁だ。井戸から入れるのは、経蔵の外周にすぎない。原本があるのは本体——正面の門の奥だ。井戸の道は、そこへは届いていない」
久遠は目を閉じたまま答えた。
「昔、俺が写しを得た地上の伽藍は崩れた。だが地の底の本体は生きている。そこに、写される前の原本がある。名前の凍結を最初に命じた記録。凍結の方法と理由。そして——最初に凍結を始めた者の名前」
「それが分かれば、止められるの」
「止められるかどうかは分からない。だが、始まりを知れば、終わらせ方が見える」
窓の外の風景が変わった。
霧が濃くなり、空気が重くなった。
湿気ではなく、情報の密度だった。
経蔵に近づくにつれて、空間に含まれる記録の量が増えている。座席の木肌がわずかに膨張するように軋み、車内の空気が一段冷えた。こよいの腕に細かい鳥肌が立った。
窓硝子の表面に、文字のような模様が結露とともに浮かんだ。
「近いな」
あさひが窓の文字を指先で拭った。
拭っても、別の文字がすぐに浮かんでくる。
空気そのものに記録が溶けている。
久遠が目を開けた。
義眼に蒼光が灯る。光は車内を走査するように一巡し、窓硝子の文字の上で止まった。
「経蔵の停車場に着いたら、目録を開く。原本との照合を始める。時間はかけられない。経蔵の内部には理の監視が及んでいる。長居すれば見つかる」
「見つかったら」
「目録が没収される。俺たちの記憶も消されるかもしれない」
あさひが鼻を鳴らした。
「消させるかよ」
久遠は薄く笑った。
笑ったのは一瞬で、すぐにいつもの硬い表情に戻った。
列車が減速を始めた。
窓の外の霧が更に濃くなり、行灯の火が霧を貫いて青白く光った。
車輪の回転が遅くなるにつれ、振動が低く太くなり、骨の奥に響いた。速度が落ちるほど、車体の揺れが大きくなる。列車そのものが、この先の重さを踏みしめているようだった。
こよいは巾着を胸に抱いた。
神々が強く脈打った。
経蔵の気配を感じ取っている。
怯えではなかった。
記憶の匂いに反応している。
自分たちの原本が、この先にある。こよいの胸の奥にも、それに応じるように熱い塊が生まれた。恐れと、期待と、そのどちらでもない何かが混じった感覚だった。
列車が止まった。
扉が開き、紙と墨の匂いが車内に流れ込んだ。
霧に混じった古い空気が、三人の頬を撫でる。乾いた紙の繊維と、何百年も読まれなかった書物の底に溜まる、あの澱のような重さだった。匂いだけで、場所の深さが分かる。列車の中にいながら、もう経蔵の内側に触れている気がした。
久遠は目録を胸に寄せ、義眼の光を絞った。
「ここだ。経蔵の停車場だ」
あさひが先に降りた。
足が石の床を踏む音が、重く響いた。音が消えず、石の下を遠くまで伝わっていく。あさひが一瞬だけ足を止めた。この場所の重さを、体で測っていた。
「静かだな」
静かではあったが、死んだ静けさではなかった。耳の底で何かが唸っている。記録が呼吸する音だと、こよいは思った。停車場の天井は見えなかった。霧が柱の上部を呑み込み、どこまでが建物でどこからが空なのか判然としない。
久遠が続き、最後にこよいが降りた。
巾着を胸に抱いたまま、足元の石畳に目を落とす。
古い文字が薄く刻まれている。踏む者の重さで何度も磨かれ、角が丸くなっていた。かつてここを通った者たちの足の跡が、石の表面に年輪のように重なっている。こよいの草履の下で、文字が微かに温度を持っているように感じた。刻まれた記録が、まだ生きている証だった。
経蔵の入口が、霧の奥に待っていた。
石と木を組み合わせた門が、霧の中からゆっくりと姿を現す。柱の表面に苔のように文字が這い、横木には墨で記された封印の跡が幾重にも重なっていた。その輪郭は重たく、近づくほどに空気が肌を圧した。三人の足が一歩進むごとに、呼吸が浅くなる。ここから先は、名前を記し、名前を凍らせた場所だ。
こよいは足を止めた。門の下に立つと、頭の上から見下ろされているような圧があった。石畳を伝わる冷気が足裏から膝まで這い上がってくる。巾着の中の神々が、門に向かって微かに引き寄せられるように脈を打った。
おたまだけが、先に門をくぐった。封印の圧は、猫には掛からないらしい。ただの古い門をくぐるように、猫は敷居を越えて、振り返った。




