第234話 あさひの教育
広場の東の停車場には、屋根つきの古い回廊があった。列車を待つ間、行灯の下でひと息ついていたとき——あさひが立ち止まった。
振り返りもせず、背中だけで気配を投げてくる。
「こよい。足の置き方を変えろ」
「え」
こよいは自分の足元を見た。
石畳の上に、何の変哲もない形で立っている。いつもの立ち方だった。
「何がおかしいの」
「重心が前に寄ってる。押されたら一歩で倒れる」
あさひは振り返り、自分の足を見せた。
肩幅に開き、膝をわずかに曲げ、腰を落としている。
こよいの立ち方とは全く違っていた。重さが地面に根を張っているように見えた。
「剣は教えねえ。そんな時間はない。だが、死なない立ち方くらいは覚えろ」
こよいはあさひの足を真似た。
膝を曲げると、太腿に力がかかった。石畳の冷たさが、足裏から脛のあたりまでじわりと染みてくる。
「きつい」
「きつくていい。楽な姿勢は逃げられない姿勢だ」
あさひがこよいの肩を軽く押した。こよいの体が後ろによろめく。
「まだ高い。もう少し落とせ」
こよいはさらに腰を沈めた。太腿が震えた。だが、今度あさひが押したとき、足は動かなかった。
「それでいい。慣れる。次は影を見ろ」
あさひが回廊の壁を指さした。
行灯の光が壁面に三人の影を落としている。こよいの影が一番薄く、あさひの影が一番くっきりしていた。
「敵が近づくと、影が先に動く。光源と自分の位置が分かっていれば、影の変化で背後が読める」
「影で」
「目で見えるものは、敵も見えてる。見えないものを拾え」
こよいは壁面の影を見つめた。
行灯の炎が揺れるたび、三つの影が微かに伸び縮みする。その揺れの中に、何か別のものが混じったら——それが異変ということだ。
久遠は通路の奥に背を預けて座り、目録を広げていた。
会話を聞きながら、時折鉛筆を走らせている。鉛筆が紙をこする音が、静かな回廊に小さく響いていた。
あさひはこよいの正面に立った。
「目を閉じろ」
「……閉じた」
「何が聞こえる」
こよいは耳を澄ませた。
回廊は静かだった。
だが、完全な無音ではない。目を閉じると、それまで聞こえなかった音が輪郭を持ち始めた。
「……壁が鳴ってる。低い音。石が重さで軋んでるみたいな」
あさひは何も言わない。続けろ、という沈黙だった。
「久遠の鉛筆の音。紙の目に引っかかる音と、滑る音が交互にしてる。それから——」
こよいは首を傾げた。
右の頬に、かすかな冷たさが触れている。
「——風。どこかから風が来てる。右の方から。冷たくて、少しだけ湿ってる」
「それだ」
あさひが言った。声に、初めてわずかな肯定の色が混じっていた。
「空気の流れは、空間の形を教える。風が来る方向には通路がある。風が止まっている場所は、行き止まりか、何かが塞いでいる」
「じゃあ、温度が変わったときは」
「近くに火があるか、何かが動いた。人でも、記録でも、空気を押すものは熱を運ぶ」
こよいは目を開けた。
右の壁に、確かに細い隙間があった。
石と石の継ぎ目が指一本分だけ開いていて、そこから微かな風が流れている。目を閉じていなければ気づかなかった。
「経蔵の中じゃ、記録が動く」
あさひの声が低くなった。
「棚から落ちた紙が刃みてえに飛んでくることもある。退蔵室で見ただろう。あの紙が崩れるとき、粉が目に入る。それだけで動けなくなる」
こよいは退蔵室の光景を思い出した。
指先で触れただけで崩れた紙。砂より細かい、温度のない粉が指から落ちた感触は、まだ残っている。あれが宙に舞って目に入ったら——確かに、何も見えなくなるだろう。
「だから、空気の変化を読め。紙が動く前に、空気が先に動く。棚の奥で何かが崩れ始めたら、その方向から風が押し出されてくる。肌で分かるはずだ」
あさひはこよいの肩に手を置いた。手のひらの重さと熱が、薄い着物越しに伝わってきた。
「足を動かすな。今の位置で、壁との距離を手で測れ」
こよいは腕を伸ばした。
右の壁まで、腕一本分。指先が石の表面に触れる。冷たくて、わずかにざらついていた。
左の壁までは、もう少しある。腕を伸ばしきっても届かなかった。
「壁との距離が分かっていれば、暗闇でも移動できる。義眼を持ってる久遠は別だが、お前と俺は暗闇じゃ同じだ」
久遠が顔を上げた。
「義眼も万能ではない。蒼光は記録を照らすが、記録のない場所では役に立たない。深層の最下部は、ほぼ闇だった」
鉛筆を膝の上に置き、義眼のある左目に軽く触れた。
「闇の中では、あさひの足音だけが方角を教えてくれた」
あさひが頷いた。
その一言に応えるように、短く息を吐いた。
「だから三人で補う。久遠は記録を読む。俺は物理的な脅威に対応する。こよい——」
あさひがこよいを見た。
「お前は、空気を読め。神々が反応する前の、もっと手前の変化を拾え。それがお前の役目だ」
こよいは巾着に触れた。
神々は静かだった。布越しに、ほんのりとした温もりだけがある。
「空気を読む」
「難しく考えるな。今やったことと同じだ。足の置き方、影の動き、風の向き。全部、体で覚えろ。頭じゃなく、皮膚で」
あさひは肩の手を離し、壁に寄りかかった。
石に背を預ける動作にも無駄がなかった。いつでも動ける姿勢のまま、休んでいる。
「教えられるのはここまでだ。あとは実地で覚える」
「……ありがとう、あさひ」
「礼はいらねえ。生きて動けるのが礼だ」
久遠が目録に一行書き加えた。
何を書いたのかは見えなかった。
だが鉛筆を置いた久遠の口元が、ほんの少し緩んでいた。
回廊の行灯が揺れた。
三人の影が壁面で一瞬だけ重なり、すぐにまた分かれた。
こよいは膝を曲げたまま、その影を目で追った。
太腿はまだ震えていたが、足は石畳から離れなかった。
遠くで、汽笛が鳴った。
おたまが真っ先に立ち上がり、ホームの縁へ歩いていく。訓練の間じゅう、こよいの構えを審査するように眺めていた猫は、もう次の場所を見ていた。
経蔵の停車場へ向かう列車が、霧の奥から近づいてくる。実地は、すぐそこまで来ていた。




