第232話 漂白の停車場
中陵の停車場は、前に来たときより白かった。
灰色ではない。
色が抜けたあとに残る、乾いた白だ。前回はまだ灰色だった。灰色なら、もとの色を想像できた。白は、もとが何色だったかさえわからなくなる。
今朝、発ったばかりの停車場だった。半日と経っていない。そのわずかな間に、灰色は白へ進んでいた。
列車の扉が開いた瞬間、空気が変わった。
冷気が頬を打つ。冬の冷たさとは違う。匂いのない、温度だけの冷たさだった。前回はまだ鉄錆のような匂いがあった。今回はそれすらない。匂いごと抜かれた空気の中に、三人と一匹は降り立った。おたまの首の鈴が、チリ、と一度鳴った。色のない静けさの中で、その小さな音だけが、色を持っているように聞こえた。
こよいは足を止めた。
石畳を見下ろす。前回ここに来たとき、石畳にはまだ影があった。灯籠の光が壁を照らし、石組みの凹凸が影を落としていた。今はその影がない。灯籠は立っている。光も出ている。だが影ができない。光が石を照らしても、石のほうが光を跳ね返さないのだ。白い壁が白い光を受けて、同じ白さの中に溶けている。
壁も、天井の梁も、柱も。すべてが同じ白さの中に沈んでいる。奥行きが消えていた。角があるはずの場所が、白い面として繋がっている。
「進んでる」
久遠が短く言った。
「漂白が」
目録を開いた。頁の文字が薄くなっている。前回も文字は灰色がかったが、蒼光で押さえれば読めた。今回は違う。蒼光を当てても、文字の輪郭が滲んでいく。光が文字を照らすのではなく、光が文字を白く塗り潰していくように見えた。
久遠は義眼の蒼光を頁に押し当て、消えかけた文字を押さえた。
「前にここを通ったとき、目録はこうはならなかった」
声が硬い。蒼光の出力を上げても、文字の色が戻らない。義眼の光が頁の表面で弾かれ、久遠の頬を青白く照らしていた。
「どのくらい進んだ」
あさひが訊いた。
久遠は頁から目を上げず、三秒ほど間を置いてから答えた。
「前回の倍以上。速度が上がっている」
あさひが靴底で石を擦った。
鈍い音がして、白い粉が浮いた。粉は空気の中をゆっくり漂い、落ちない。地面から一寸ほどの高さで、白い霧のように留まっている。
「前より軽いな。この町」
石畳を踏む感触が違った。前回は硬かった。靴底を通して石の密度が伝わってきた。今は、粉を踏んでいるような頼りなさがある。表面だけが石の形をしていて、中身はもう白い粉に変わっている。踏むたびにわずかに沈む。歩くたびに足跡の縁が崩れていく。
あさひは足を上げて靴底を見た。白い粉がこびりついている。指で弾くと、粉は散らずに指先にまとわりついた。
「粘る。砂じゃないな」
「名前の残滓だ。器だけ残って、中身が空になっている」
久遠が短く言った。
こよいは巾着を押さえた。
神々が小さく震えている。
前回この場所に降りたとき、神々は沈黙した。銀白色に変わり、動かなくなった。恐怖で固まったのだと思った。
今は違う。神々は震えている。脈がある。色も金色のままだ。だが震え方が、恐怖のそれではなかった。
前は怖かった。
今は、怒っているように感じる。
名前を消され続けた場所そのものが、黙って怒りを溜めている。名前の痕跡が粉になっても消えきれずに宙に漂い、踏まれるたびにまとわりつく。神々の震えは、その怒りに共鳴しているのだと思った。
停車場の壁に、文字の跡があった。
読めない。白い壁に白い窪みがあるだけだ。かつて名前が刻まれていた場所。色は消え、文字は消え、形だけが残っている。指を近づけると、窪みの縁がわずかに丸くなっていた。風化ではない。文字を構成していた意味そのものが溶け出して、輪郭が甘くなったのだ。
こよいは指先でその窪みに触れた。
冷たくはなかった。
温かくもなかった。
温度がなかった。
前回、灰色の壁に触れたとき、石は冷たかった。冷たいということは、まだ石が石であるということだった。温度を持つだけの密度が残っていた。
今は何もない。指が白い面に触れている。それだけだ。石の硬さがない。冷たさがない。ざらつきもない。指の腹が何かに触れているという感覚だけがあって、その何かに性質がない。
こよいの指が止まった。
窪みの中を撫でる。名前が刻まれていた溝を、爪先でなぞる。形はある。文字の画数がわかるほどの深さが残っている。だが、返ってくるものが何もない。溝の底を擦っても、石の抵抗がない。指だけが動いて、世界のほうが応えない。
胸の奥が冷えた。
指先の感覚が正常なのに、触れているものが空洞だという矛盾が、身体の芯を掴んだ。冷たければまだ手がかりがある。痛ければ、まだそこに何かがある。何もないということは——跡を辿る方法もないということだ。
「ここにあった名前は」
声が小さくなっていた。
久遠が義眼で壁をなぞった。蒼光が窪みを照らしても、何も浮かばない。前回は、蒼光を当てれば灰色の文字がかろうじて読めた。今は光が窪みの中を素通りしている。照らすべきものが、もうない。
「残っていない」
久遠は義眼の光を落とした。
「漂白が骨まで届いている。名前だけじゃない。名前があったという記録ごと抜かれている」
こよいは手を離した。
指先に、何の感触も残らなかった。掌を見た。白い粉もついていない。温度の記憶もない。触れたという事実だけが、こよいの側にしか残っていない。
壁のほうは、こよいが触れたことさえ覚えていないだろう。
あさひが先に歩き出した。
靴底が石畳を踏むたびに、かすかな粉が舞い上がる。白い停車場の中を、足音だけが響く。だがその足音も、壁に当たって跳ね返らない。吸い込まれるように消えていく。
「急ぐぞ。ここに長くいると、こっちまで白くなる」
冗談のように聞こえた。
だが久遠は笑わなかった。目録を閉じ、懐に仕舞う手が少し速かった。頁の角を指先で確かめるように押さえてから、ようやく手を離す。文字がまだ残っていることを、指で確認しているのだ。
こよいは巾着を胸に抱いて歩いた。神々の震えは止まらない。だがそれは恐怖ではなかった。前回のように沈黙していないことが、かえって心強かった。
三人の足跡が、白い石畳の上に灰色の点を残していく。
振り返ると、その足跡ももう薄くなり始めていた。数歩前に置いた足跡が、白に呑まれて消えかけている。この場所は、三人がここを歩いたことさえ消そうとしている。
こよいは前を向いた。消される前に、先へ進む。




