第231話 座標の書換え
中陵の停車場から乗った列車は、経蔵の正面口——余白の奥の停車場へ向かうはずだった。命令書の座標を、原本と照合するために。だが発車して間もなく、車窓の様子がおかしくなった。
窓の外の景色が変わるたび、こよいは自分の名前を心の中で繰り返した。
こよい。
こよい。
こよい。
山が平野に変わる。
平野が海になる。
さっきまで見えていた塔が、次の瞬間には砂の上の影になっている。
座席の下から振動が伝わる。車輪が線路を踏む感触だけは変わらないのに、その線路の下にある土地がまるごと入れ替わっていく。窓硝子に額を近づけると、硝子が冷たかった。外の気温が伝わっているのではない。景色が書き換わるたびに硝子の温度ごと変わるのだ。さっきは指先が張りつくほど冷えていたのに、今はぬるい。
「書き換えが始まってる」
久遠が義眼を上げた。
目録を膝の上で押さえている。頁の文字が動いていた。配列が崩れ、浮き上がろうとする文字を蒼光で押さえ戻している。指先が白くなるほど力を込めていた。
「座標だけじゃない。ここでは、自分の立っている場所ごと定義し直される」
「定義って——地面のこと?」
こよいが訊くと、久遠は首を横に振った。
「地面も、空気も、時刻も。この区間に入った瞬間から、窓の外にある全てが一つの座標系に束ねられていない。複数の場所が同時に重なって、順番に表に出てきている」
窓の外で、川が逆流した。
逆流したかと思えば、そこにはもう川がなかった。代わりに白い砂漠が広がり、砂漠は数秒で森に変わった。森の木々の色は秋だった。赤と黄の葉が窓の向こうでざわめいている。それが三度まばたきする間に若葉の緑になり、枯れ葉の匂いが青い草の匂いに変わった。
景色だけではない。
空気の温度が変わる。匂いが変わる。さっきまで冬の冷たさだったのに、今は夏の草の匂いがする。車内にいるのに、季節ごと書き換えられている。
鼻の奥に、潮の匂いが混じった。次の瞬間には土の匂いに変わり、その次には何の匂いもしなくなった。匂いが消えた瞬間が一番怖かった。自分がどこにもいないような気がした。
こよいは巾着を握り締めた。
神々の脈が乱れている。景色が変わるたびに、拍動のリズムがずれる。普段のこよいの心臓に寄り添うような脈ではなく、外の書き換えに引きずられるように速くなったり、止まりかけたりしている。
怖い、と思った。
自分がどこにいるのか、わからなくなりそうだった。
足の裏が痺れている。座席に座っているだけなのに、地面の感覚がない。列車の床は確かにここにあるのに、その下が何度も抜け替わるせいで、体が宙に浮いているような不安が背骨の底から這い上がってくる。
こよいは自分の膝を両手で掴んだ。爪が布地に食い込んだ。ここにいる。ここに座っている。それだけを確かめるように、膝の骨の硬さを指先で探った。
あさひが剣の柄を叩いた。
乾いた音が車内に響く。窓の外がどう変わっても、あの音だけは同じだった。鉄を掌で打つ、短い打音。
「なら、こっちで先に決める」
「何を?」
こよいが訊く。声が少し震えていた。
「自分が誰で、何のためにここにいるかだ」
あさひは窓を見なかった。
窓の外がどう変わろうと、関係がないという目をしていた。外に何があっても、あさひの座り方も、剣を立てかける角度も、何一つ変わらない。
「外が決められないなら、中から先に決めちまえばいい」
列車が大きく揺れる。
窓の外で、町が一つ沈んだ。家並みが地面に飲み込まれるように消え、跡には灰色の湖が広がった。湖は数秒で干上がり、ひび割れた泥の平野になった。
こよいの喉が締まった。町だった。屋根があり、煙が上がり、さっきまで誰かの暮らしがあった形をしていた。それが沈んだのか、それとも最初からなかったことにされたのか——区別がつかないことが、一番怖い。
あさひは前だけを見て言う。
「俺は、二人を通すために立つ」
短い声だった。宣言というほど重くもなく、確認するように言っただけだった。だがその一言で、あさひの座席の周りの空気だけが静かになった。窓の外の書き換えが一瞬ためらうように、あさひの肩の輪郭の周りだけ景色の揺れが遅くなった。
久遠は目録を押さえたまま、短く息を吐いた。
「俺は、読むためにいる」
目録の文字が、一瞬だけ動きを止めた。蒼光の揺れも止まった。久遠が自分の言葉を口に出した瞬間だけ、文字が聞いたように見えた。浮き上がりかけていた行が頁に沈み直し、配列が戻る。
二人が言葉にした。
あさひの言葉で空気が定まり、久遠の言葉で文字が戻った。
残りは、自分だ。
こよいは巾着を胸に押し当てた。
神々の脈がまだ乱れている。布越しに伝わる拍動が、こよいの心臓と噛み合わない。
窓の外で、今度は夜が昼に変わった。
昼が夜に戻った。何度も、何度も。光と闇が交互に瞬いて、車内の影が伸びたり縮んだりする。こよいの手の甲に落ちる影が、自分のものかどうかもわからなくなった。
こよいは目を閉じた。
窓の外を見るのをやめた。
瞼の裏に、暗さだけが残る。外がどう変わっても、目を閉じた暗さは同じだった。その暗さの中で、巾着の中の神々の脈だけを探した。乱れている。けれど、ある。まだ打っている。
「……ぼくは、助けるために来た」
声は小さかった。
けれど、巾着の中の神々が応えた。乱れていた脈が、一度だけ、こよいの心臓と同じタイミングで打った。胸の奥で二つの拍動が重なって、その一拍だけが、体の芯まで響いた。
三人の言葉が揃った瞬間、窓の外の歪みが一拍だけ止まった。
こよいは目を開けた。
止まったのは一拍だけだった。
すぐに景色は崩れ始めた。山が海になり、海が空になった。
だが三人の座席の周りだけは、もう揺れなかった。
足の裏に、床の硬さが戻っている。さっきまで浮いていたような不安が消え、座席の背もたれが背中に当たる感触がはっきりとある。
書き換えは続いている。それでも、三人がいる場所だけは、三人の言葉が先に決めていた。
おたまは、通路を挟んだ席で眠っていた。書き換えの間じゅう、一度も起きなかった。定義し直されるものが、この猫には最初から何もないかのように。
久遠が窓の外に義眼を向け、舌打ちした。
「……路線ごと書き換えられた。この列車は、もう経蔵の停車場へは向かっていない。行き先が、中陵に戻されている」
中の三人は守れた。だが列車の行き先までは、守れなかった。
車輪が線路を叩く音だけが、一定の間隔で刻んでいる。
こよいはその音を数えた。一つ、二つ、三つ。窓の外がどう変わっても、車輪の音は同じ間隔で続いていた。自分の名前と、車輪の音。どちらも書き換えられずに、ここにある。




