第229話 退蔵室
深層の壁の一角に、氷のない通路が口を開けていた。
井戸は経蔵の測定口——久遠の言葉どおり、青黒い層の縁から、地の底の書庫へ渡る道が続いていた。三人は霜里の井戸を、経蔵の内側へと抜けた。
通路の出口には、おたまが待っていた。青黒い層を通らずに、猫だけが知る道で回り込んだらしい。何食わぬ顔で毛づくろいをしている。
長い通路を歩いた先——経蔵の東棟に、扉のない部屋があった。
入口は低く、久遠でさえ頭を下げなければ通れない。石の枠が両側から迫り、こよいの肩が壁に触れた。冷たい石だった。表面に薄く湿気を帯びていて、指先がわずかに滑る。
中に入ると天井が高くなり、四方の壁に棚が並んでいた。木の棚だった。古い木の匂いがする。だが木よりも強い匂いが部屋の中に漂っていた。乾いた紙の匂いだ。墨の残り香ではなく、紙そのものが朽ちていく匂い。こよいの鼻の奥に、微かな苦味として届いた。
棚には紙の束が積まれている。
だが、その紙が奇妙だった。
文字が薄い。
こよいは手近な束を取り上げた。
紙は軽かった。乾いた葉のように軽く、指の間で崩れそうだった。表紙にあたる一枚目には題名らしきものが書かれていたはずだが、灰色の染みが残っているだけで、一字も読み取れない。
書かれていた文字は、墨の色を失いかけている。
灰色の線が紙の上にうっすらと残っているだけだった。
「読めない」
こよいは束を傾けて光に透かした。紙の繊維の隙間から、薄明かりが素通りしていく。
「読めなくなったんだ」
久遠が棚の前に立ち、別の束を手に取った。
目録を開かず、義眼も使わず、ただ紙を見ている。持つ手つきが静かだった。壊れやすいものを扱うときの、久遠にしては珍しい慎重さがあった。
「この部屋は退蔵室だ。聞いたことがある」
「退蔵……」
こよいが束を戻しながら繰り返した。棚に置くとき、紙と木が触れる小さな音がした。それ以外に音はなかった。部屋の空気が厚く、音を吸い込んでいるようだった。天井から降りてくる薄明かりも、棚の奥までは届かない。棚の深い場所は暗く、そこに何が積まれているのか見えなかった。
「物語は、語られることで存在する。聴く者がいなくなった物語は、次第に力を失う」
久遠は束を持ったまま、一枚だけめくった。白に近い灰色が広がっているだけだった。
「文字が薄れ、紙が脆くなり、やがて何も残らなくなる」
久遠は束を元の場所に置いた。
「破棄されたのではない。忘れられたんだ」
忘れられた、という言葉が耳の中で反響した。こよいは巾着に手を当てた。神々は微かに脈打っているが、その振動がいつもより遠い気がした。
あさひは部屋の中央に立ち、腕を組んだまま四方の棚を見回していた。大剣の柄が背中で微かに揺れている。
棚は天井まで届いている。
その全てに、色を失いかけた紙の束が積まれていた。数え切れない。何百という束が、薄明かりの中でぼんやりと白く並んでいる。
「……全部か」
「この部屋にあるものは、全て」
久遠が頷いた。静かな動作だった。確認でも同意でもなく、ただ事実を認めるだけの頷きだった。
こよいは別の棚に近づいた。
下の段にある束は、上の段よりも更に薄かった。文字の痕跡すら消えかけている。紙の色も違う。上の段がまだ灰色を保っているのに対して、下の段は白に近い。墨が抜け切った紙は、もう紙ですらないように見えた。
触れた瞬間、紙の端が崩れた。
粉のように細かい欠片が、こよいの指先から落ちた。
「あ」
こよいは慌てて手を引いた。
だが遅かった。
束の角が欠け、そこから紙の繊維がほどけていく。
糸が解けるように、ゆっくりと。音もなく。
こよいは息を止めた。
指先に、崩れた紙の感触がまだ残っていた。砂より細かく、温度のない粉だった。何かが指の上で終わった感触。取り返しがつかないことをした、という確信が胸の底に落ちた。
崩れていく紙の上に、最後の一行だけが見えた。
薄い灰色の文字。
読めたのは、一語だけだった。
誰かが、誰かに向けて書いた言葉。
——ありがとう。
それが消えた。
文字の灰色が白に溶け、輪郭を失い、紙ごと粉になった。棚の上に薄い層を残した。
こよいの目が熱くなった。
視界が滲んで、棚の輪郭が揺れた。
「……ぼくたちの話も、いつかこうなるの」
声が震えていた。自分でも分かるほどに。
久遠は答えなかった。
あさひが口を開いた。
「ならねえよ」
低い声だった。部屋の乾いた空気を裂くように、短く、硬い声だった。
「まだ歩いてる話は、退かねえ。退くのは、立ち止まった話だ」
あさひは棚に手を置いた。
紙には触れず、棚の木枠だけに触れている。指先に力が入っていた。
「こいつらは立ち止まったんじゃねえ。聴く奴がいなくなっただけだ。話のせいじゃない」
こよいは目を拭った。袖に湿り気が移り、冷たかった。あさひの声がまだ耳に残っている。硬いのに、どこか温かい声だった。
久遠が目録を開いた。
退蔵室の位置と棚の数を記録している。
義眼は使わなかった。右目だけで棚の配列を確かめ、筆を走らせた。
「記録はする」
久遠の声は平坦だったが、筆を持つ手に迷いがなかった。
「この部屋があったことだけでも、目録に残す」
筆の音が静かに響いた。乾いた紙の上を穂先が走る、微かな摩擦音だけが退蔵室に満ちた。
こよいは巾着を握った。
神々は静かだった。温かくも冷たくもなく、ただ穏やかに脈打っている。忘れられた物語の隣で、まだ動いている。それだけが確かだった。
退蔵室の空気は乾いていた。
埃の匂いではない。紙と墨が長い時間をかけて失われていく、静かな匂いだった。甘さも酸っぱさもない。ただ薄い。何かがあった場所の、何もなくなりかけている匂い。
こよいは部屋を出る前に振り返った。
薄明かりの中で、棚の上の紙束が微かに揺れていた。
三人が動いた空気に触れて、最後の頁がめくれている。
読めない文字が、一瞬だけ光を受けて浮かんだ。
それもすぐに沈んだ。
こよいは目を伏せ、扉のない入口をくぐった。低い石の枠をくぐるとき、肩がまた壁に触れた。来たときと同じ冷たさだった。だが今は、その冷たさの意味が違って感じられた。
背後で、退蔵室は再び静寂に戻った。




