第225話 目録の新記述
汽笛の余韻が霧に溶けた。
石畳の上で、三人はまだ動けずにいた。走り抜けた体が、ようやく止まったことを受け入れかけている。
「ここ……中陵の停車場だよね。ぼくたち、月影井戸から降りたのに、どうやって」
「戻されたんだ」
久遠が石の上に座り込んだまま答えた。
左手で顔を覆っている。
指の隙間から、義眼の光が不規則に明滅していた。
月影井戸の底で出力を上げすぎた反動が来ている。義眼の光がちらつくたびに、久遠の体が微かに揺れた。痛いのだ、とこよいは思った。目の奥が。
「目、大丈夫なの」
こよいが久遠の傍にしゃがんだ。
久遠は手を下ろさなかった。
義眼のある左の目尻から、細い線のように血が一筋流れていた。頬を伝い、顎の先から石畳に落ちる。小さな赤い染みが石に吸い込まれていく。
「視えている。まだ視えている」
それだけ言って、久遠は目を閉じた。声は平静だったが、閉じた目蓋の下で義眼がまだ明滅しているのが皮膚越しに見えた。
おたまが、音もなく久遠の膝に前脚をかけた。血の乾いた頬を間近から覗き込み、鼻先をひくつかせる。それから、診察を終えた医者のような顔で久遠の脇に丸くなった。久遠は目を閉じたまま、追い払わなかった。
しばらく誰も動かなかった。
停車場の石の冷たさが体温を奪っていく。
霧が三人を包み、行灯の火だけが唯一の光源だった。静かだった。聖域の崩壊の音が、ここまでは届いていない。閉じた穴の向こうで、何が起きていても、もうこちらには聞こえない。
こよいは巾着を膝の上に置いた。
神々は静かだった。
月影井戸の底で激しく脈打っていた神々が、今は沈黙している。
氷の聖域で柱の光に反応したときの興奮が嘘のように、神々は奥深くに沈んでいた。触れても反応が遅い。温もりはあるが、遠い場所から届いているような温もりだった。
「あの子たち、疲れてる」
こよいが巾着に手を当てて言った。
温もりはあるが、弱い。聖域の中であれだけ脈打ち、光に反応し、こよいの手を通して記憶を流した。その分だけ、消耗している。
「俺たち全員疲れてるぜ」
あさひが停車場の柱に背を預けて言った。
大剣を膝に立てかけ、目を閉じている。
だが肩の力は抜いていなかった。こよいが見ているのに気づいたのか、あさひは目を閉じたまま口の端だけ上げた。
「寝てねえよ。聞いてる」
久遠がゆっくりと目を開けた。
義眼の明滅が落ち着き、弱いながらも安定した蒼光に戻っている。左の目尻の血は、もう止まっていた。乾いた跡が線のように残っている。
懐から目録を取り出した。
表紙に変化があった。
灰色に侵食されていた角の部分に、金色の筋が一本走っている。
月影井戸の氷の聖域で浴びた光の痕だった。指先で触れると、僅かに温かい。目録が光を覚えている。
「目録に新しい記述が加わった」
久遠が頁を開いた。こよいとあさひが覗き込む。
以前は灰色に塗り潰されて読めなかった箇所に、薄い文字が浮かんでいた。読めるのは一部だけだった。文字の濃さがまちまちで、はっきり読めるものもあれば、灰色から半分だけ浮かんでいるものもある。だが一部でも、これまで見えなかったものが見えるようになった意味は大きい。久遠は義眼の光を落として、目録自体の文字の光だけで読んだ。義眼の負荷を避けている。
「霜里の井戸の底に、もう一つの層がある。前に降りたときには見えなかった層だ。聖域の光を浴びた目録でなければ、存在すら認識できない」
「また降りるの」
こよいが訊いた。声に疲れが混じっていた。だが拒否の色はなかった。
「降りる」
久遠は短く答えた。
「三つの町の井戸は鍵だと言った。だが鍵を回すには、もう一度戻る必要がある。聖域の光が目録に焼き付いている間に、井戸の底の隠された層を読む。それが次の手順だ」
あさひが目を開けた。
「体が動くなら、早いほうがいい。目録がまた灰色に戻る前にな」
立ち上がり、大剣を背に負い直した。立ち上がる動作にほんの僅かな遅れがあった。あさひも疲れている。だが足元は確かだった。
停車場の奥に、列車の気配があった。
汽笛の代わりに、行灯の火が二度瞬いた。
久遠は目録を閉じ、立ち上がった。
足元がわずかに揺れたが、こよいが手を伸ばす前に自分で体勢を整えた。掌を石畳について、身体を押し上げる。その手のひらに、石畳の冷たさが染み込んでいくのが見えた。
こよいは巾着を腰に結び直した。
雨の神の温もりが少しだけ戻っていた。沈んでいた神々が、浮かび上がろうとしている。休む時間は短くても、休めたことには意味がある。
霧の中を、列車の輪郭が浮かび上がった。
蒼白い行灯の光を纏った車体が、停車場の闇の奥で静かに三人を待っている。扉が開いていた。車内の行灯が二つ、柔らかい光を投げかけている。
こよいは巾着をそっと握りしめ、列車に向かって歩き出した。あさひが隣を歩き、久遠が少し後ろをついてくる。三人の足音が石畳に跳ね返る。その音が、今はとても心強かった。




