第224話 観測者の忘れ形見
天秤の残骸が崩れの底へ沈むと、黄金の道が現れた。
橋ではない。
氷片から伸びた一本の光が、崩れ落ちる空間の上に細く張られている。幅は一人分しかない。光の縁が波のように揺れていて、安定していない。
天井から氷の破片が降ってきた。こよいの肩を掠め、足元で砕けて消える。聖域の崩壊が加速している。
「走れ!」
久遠の声で、三人は同時に踏み出した。
あさひが先頭だった。剣を右手に持ったまま、光の道の上を全力で駆ける。足が触れるたび、光の道に波紋が広がる。波紋が前方に走り、道を揺らす。数歩遅れれば、そこはもう道ではなくなる。崩れた石も、建物の輪郭も、全部が光の外で沈んでいく。
こよいは二番目に走った。巾着を片手で胸に押さえ、もう片方の手でバランスを取る。光の道は踏むと硬い。だが硬さの中に弾力がある。蹴れば沈み、離せば戻る。足を置く場所を選ぶ余裕はなかった。あさひの足跡が残した波紋を踏み、その揺れを使って前に進んだ。
周囲の景色が壊れていた。
家の壁が硝子の破片のように散り、石畳が空中でばらけて消える。さっきまで歩いていた通りが、足元から剥がれ落ちるようにして暗闇へ沈んでいく。壁の断面に、名前の刻みが見えた。沈みながら光っている。助けてほしいのではない。こよいたちが走っていることを、見送っているように見えた。
こよいは走りながら、沈んでいく景色の中に人の形を見た。
立っている。手を伸ばしている。
だが触れる前に、霧のように散った。
振り返らなかった。
前を見る。
あさひが前にいる。
久遠の蒼光が後ろから届く。
その二つの灯の間を走ることだけを、こよいは信じた。
久遠の足音が近い。義眼の蒼光がこよいの背中を照らし、影が前方に伸びた。その影の先をあさひが踏んで走る。三人が一本の線になって、光の道を繋いでいた。
左手の空間が丸ごと落ちた。家も道も空気も、まとめて暗い底へ吸い込まれる。風圧がこよいの髪を横に引いた。足がふらつく。
「前!」
あさひの声が飛ぶ。見るな、と言っている。
こよいは前を向いた。
道の真ん中に、何かが落ちていた。
金属の箱だった。掌に収まるほど小さく、蓋が半分開いている。光の道の上に、崩壊する空間から落ちてきたものだった。元は壁の中に埋め込まれていたのかもしれない。箱の中に、薄い紙片が一枚。
久遠が走りながら拾い上げた。足を緩めたのは一瞬で、すぐに元の速度に戻る。
義眼が一瞬だけ紙を照らし、すぐに前を向いた。
「観測者のものだ。後で読む」
箱を懐に押し込む動作が素早かった。走りながら物を拾い、判断し、仕舞う。久遠の身体は華奢だが、走ることには慣れている。頭で考えるより先に、手が動いていた。
道が揺れた。
光が薄くなり、足元の波紋が広がるのが遅くなる。道が消えかけている。
巾着が熱くなった。
雨の神が脈打つたびに、光の道が踏んだ場所だけ少し明るくなる。温もりが道を繋いでいた。こよいは巾着を胸に押し当てたまま、足を止めなかった。脈動に合わせて走る。雨の神の拍動と足音が重なるたびに、光の道が一瞬だけ強くなった。
あさひが道の端に寄った影を斬り払い、進路を確保する。
振り向きもしない。前だけを見て走る背中が、こよいの視界の中心にある。あさひの走り方が変わっていた。最初は剣を構えながら走っていたが、途中から剣を下げた。斬る必要がなくなったのではない。斬る前に影のほうが避けるようになった。
久遠が叫んだ。
「出口が見える!」
光の道の先に、暗くない場所があった。
灰色の空と、乾いた石畳。停車場のホームの端が、霧の向こうに浮かんでいる。
おたまはもう、道を渡りきっていた。ホームの端に座って、こちらを見ている。
あさひが最後の二歩で跳んだ。石畳の端に着地し、振り向いて腕を伸ばす。こよいがその手を掴み、引き上げられた。久遠が最後に飛び出し、三人の足が同時に石畳を踏んだ。
光の道が背後で砕けた。
振り返ると、黄金の光は残っていなかった。崩壊した聖域の跡に、ただ暗い穴が口を開けているだけだった。穴は見る間に縮み、最後に小さな点になって消えた。
石畳の冷たさが膝に伝わる。
こよいは四つん這いのまま、しばらく動けなかった。肺が熱い。走っている間は気づかなかったが、息が足りていなかった。手の甲に汗が流れている。こんなに汗をかいていたのかと、自分の身体に驚いた。巾着が脈打っている。神々も息を切らしているようだった。四柱とも同じリズムで、速く、浅く、脈打っていた。
あさひが膝に手をつき、肩で息をした。剣は、負荷をかけないよう腕に抱えたままだった。
「……生きてんな」
久遠が膝をつき、拾った金属の箱を開いた。
義眼の蒼光が、紙片の上をゆっくりとなぞる。
「観測者の私物だ。計測記録じゃない。……日誌のようなものの、最後の一頁」
久遠は紙を読み上げなかった。
ただ、義眼の光が一瞬だけ揺れた。何が書かれていたのか、久遠の表情からは読めなかった。だがいつもなら即座に解説する久遠が黙っている。それ自体が、紙に書かれていたものの重さを伝えていた。
「何が書いてあるの」
こよいが息を整えながら訊く。
久遠は金属の箱を懐に仕舞った。
「忘れ形見だ。観測者が、最後に書いたもの」
それ以上は言わなかった。
だが義眼の光が、少しだけ弱くなった。
あさひが顔を上げ、深く息を吸った。
「空気が違う。やっとまともに吸える」
こよいも息を吸った。肺の奥まで空気が届く。聖域の中では、いつの間にか浅い呼吸しかできなくなっていた。
停車場の霧が三人を包んだ。冷たいが、聖域の冷たさとは違う。生きている冷たさだった。
遠くで、列車の汽笛が鳴った。こよいは巾着を見下ろした。神々の脈動が落ち着いていく。走り抜けた。三人で、走り抜けた。




