第226話 名の重ね
列車が動き出した。
中陵の停車場が霧に沈んでいく。行灯の火が一つ、二つと遠ざかり、最後に全部まとめて白い幕の向こうに消えた。
車内は空いていた。
蒼白い行灯の火が一つだけ灯り、三人の影を座席に落としている。座席の木肌は古く、腰を下ろすと車輪の振動が骨まで伝わった。こよいは窓際に座り、あさひが通路側、久遠が向かいの席についた。
窓の外は灰色ではなく、白い霧だった。
影の中心を通らない路線だと久遠が言った。
「前に霜里に行ったときとは違う道だ」
「影の中心を避けるのか」
あさひが訊いた。腕を組んで座席に深く身を沈めている。目は閉じていなかった。車窓の白い霧を、ぼんやりと見ている。
「目録がこれ以上灰色に侵されると、新しく加わった記述も消える。迂回路を使う」
久遠は目録の表紙を指先で撫でた。金色の筋が一本だけ走っている。聖域の痕を、確かめるように何度も触れていた。
窓の外の霧が薄くなり、やがて消えた。
代わりに夜の風景が広がった。
黒い平野の上に、遠くの町の灯が点々と見える。
名前の知らない町だった。
霧列車の路線は三人が知っている町だけを繋いでいるのではなく、もっと広い世界に枝分かれしている。こよいはそのことに今さら気づいた。この世界は、三人が歩いた場所だけで閉じていない。知らない道があり、知らない停車場があり、三人が降りることのない町がある。
こよいは窓に額を近づけた。
知らない町の灯は、こよいたちが訪れた町の行灯とは違う色をしていた。
黄色い、温かい光だった。
人が住んでいる町の光だ。蒼白い行灯ではなく、火の色をした灯。人が手で灯した光。こよいはそれを見ていると、胸の奥がきゅっと締まった。あの灯の下に、誰かがいる。名前を呼ばれて、返事をする誰かがいる。
おたまが座席に跳び乗り、こよいの隣で同じ灯を見た。黄色い光が、丸い瞳に映って揺れる。猫は長いこと、瞬きもせずにそれを見ていた。
「あの町にも、名前を凍結された神様はいるの」
「いるだろう。この世界のどの町にも、かつて神がいた。そしてそのほとんどが、観測者の手で名前を奪われている」
久遠の声は淡々としていたが、義眼の光が微かに揺れた。「ほとんど」という言葉の重さを、久遠自身が噛みしめているようだった。
久遠は目録を膝の上に開いていた。
義眼の出力は控えめにしている。反動がまだ残っているのだ。
月影井戸の聖域で得た新しい記述を、蒼光をゆっくり当てながら読んでいた。
「霜里の井戸の底、三十尋より下に隠された層がある。前回の降下では十五尋で止まった。その下に、折り畳まれた名前の束がある」
「折り畳まれた」
こよいが繰り返す。聞いたことのない言葉だった。名前を折り畳む。紙のように。布のように。生きた名前を。
「一つの氷の中に、複数の名前が重ねて封じられている。名の重ねだ。個別に凍結するより効率がいいが、解凍が極めて困難になる」
久遠が頁を指で押さえた。
「観測者が名の重ねを使ったのは、急いでいたからだ。大量の名前を一度に処理する必要があった。何かが起きて、時間がなかった」
「何が起きたの」
「それを確かめに行く」
久遠は声を切った。「何か」が何であるかは、まだ分からない。だが目録の記述が急いでいたことだけは確かだ。急いで凍結し、急いで封じ、急いで隠した。その焦りが、名の重ねという乱暴な手段になって残っている。
久遠は目録を閉じ、膝の上に伏せて目を閉じた。眠るのではなく、義眼を休めている。蒼光が消え、車内が行灯の火だけになった。
あさひが腕を組んだまま、窓の外を見た。
「また冷える場所に行くのか」
誰にともなく言った。こよいには、あさひが冷たい場所を嫌がっているのではないと分かった。冷たい場所にいるあの子たちのことを、考えているのだ。
列車が速度を落とし始めた。
窓の外の風景が変わった。
黒い平野が消え、白い霜が地面を覆っている。
空気が急に冷えた。車内の温度が目に見えて下がり、こよいの吐く息がうっすらと白くなった。
窓硝子に氷の結晶が広がっていく。
霜里の気配だった。
前に来たときと同じ、無音の冷気。
だが今回は、その冷気の奥に微かな裂け目を感じる。
月影井戸の聖域を知った体が、以前は気づかなかった隙間を捉えている。冷気の奥に、かすかな震えがある。名前が震えているのだ。こよいにはもう分かる。あの震えは、凍結の震えではない。目覚めかけている震え。三人が聖域で天秤を壊したことが、ここまで伝わっている。
「着くぞ」
あさひが立ち上がった。
大剣の柄に手をかける。座席から立つ動きに迷いがなかった。行くと決めたら、あさひの身体は即座に応える。
こよいは巾着を胸に当てた。
神々が脈打ち始めていた。
霜里の冷気を覚えている。
前回ここに来たとき、神々は怯えるように震えていた。
だが今回の脈動は違った。
怯えではなく、覚悟の鼓動だった。
窓の外に、行灯の蒼白い火が見えた。
霜里の停車場が、霜の中に佇んでいた。
列車が軋みを上げて停まった。
扉が開くと、凍てつく空気が車内に流れ込み、三人の吐く息を白く染めた。
こよいは巾着を握りしめたまま、一歩を踏み出した。
靴底が霜を踏む音だけが、停車場の沈黙を破った。霜が靴の下で砕ける感触は、氷の聖域の床を踏んだときと似ていた。だがこちらの霜は薄い。足を踏み込めば石畳に届く。その下にあるもの——名前の束が眠る深い層のことを、こよいはもう知っている。




