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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第8章 砂の境

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221/250

第221話 未踏の地

挿絵(By みてみん)


井戸(いど)の底は、底ではなかった。

 足が着いた先に広がっていたのは、天井の見えない空洞(くうどう)だった。

 四方から冷気が押し寄せ、吐く息が白く凍った。着地の衝撃が(ひざ)から腰に走り、こよいはしゃがみ込んだまま顔を上げた。

 懐に抱えて降りたおたまが、するりと腕を抜け出し、先に床へ降り立った。猫は寒さに首をすくめもせず、暗闇(くらやみ)の奥へ耳を向けた。


 暗い。

 月影井戸(つきかげいど)(ふち)から見下ろした暗さとは質が違う。ここには光を吸い込む意志があった。暗闇(くらやみ)の中に、何かが整列している気配がある。整列、という言葉がなぜ浮かんだのか分からなかった。だが空気の流れに規則性がある。等間隔に何かが並んでいて、気流が均等に裂かれている。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)の出力を上げた。


 蒼光(そうこう)が闇を裂き、空洞(くうどう)の一端を照らした。

 棚だった。

 石と氷で組まれた巨大な棚が、奥へと並んでいる。一つひとつが天井近くまで伸び、表面に氷の板が()め込まれていた。棚の幅はこよいの両腕を広げたほどで、それが何列も、蒼光(そうこう)の届かない闇の奥まで続いている。

 氷の中に、文字が浮かんでいる。


 「記録だ」


 久遠(くおん)の声が空洞(くうどう)に反響した。壁に当たり、天井に跳ね、足元の氷を滑って戻ってくる。自分の声に囲まれた久遠(くおん)は、一瞬だけ(まゆ)(ひそ)めてから続けた。


 「三つの町の井戸(いど)にあった名前の写しじゃない。ここにあるのは原本だ。凍結される前の、生きていた状態の記録が保存されている」


 こよいは近くの棚に手を伸ばした。

 氷の板は滑らかで、触れると指先に微かな振動が伝わった。名前が氷の中で眠っている。


 だが、霜里(しもざと)井戸(いど)で感じた完全な静止とは違っていた。

 微かに、本当に微かに、脈打っている。


 「あったかい」


 こよいが(つぶや)いた。


 氷なのに、指の先に温もりがあった。(てのひら)全体ではなく、指先の一点にだけ伝わる温もり。名前の形に沿って、熱が残っている。指を滑らせると、文字の画数に沿って温度が変わった。横棒は温かく、縦棒は少し冷たい。筆順のように、温度に順番がある。


 こよいは隣の氷板にも触れた。こちらも温かい。だが温度が違う。名前が違うように、温もりも一つずつ異なっている。


 「原本だからだ」


 久遠(くおん)は近くの棚を見上げながら言った。


 「写しは凍結の過程で熱を失う。だが原本は、まだ自分の温度を保っている。この棚に並んでいるのは、生きた記録だ。凍結されているが、死んではいない」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)で棚の奥を走査(そうさ)した。

 蒼光(そうこう)が次々と棚を照らし、そのたびに氷の中の文字が一瞬だけ明るくなった。反応している。光に触れると、名前が目を覚ましかけるように輝く。


 何列目かの棚を照らしたとき、複数の氷板が同時に光った。連鎖するように、隣の板が、その隣の板が、淡い光を(とも)していく。


 「久遠(くおん)、消せ」


 あさひが低い声で言った。


 「全部起こすつもりか。この数が一度に目覚めたら、俺たちが持たねえ」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)の出力を落とした。

 空洞(くうどう)が再び暗くなり、棚の氷板が闇に沈んだ。

 だが消えたあとも、氷の中の文字が残像(ざんぞう)のように淡く光り続けていた。


 目覚めかけた意識は、すぐには眠りに戻れない。こよいは氷板から手を離したが、指先に残った温もりが消えなかった。まだ触れているような感触が、皮膚の下に残り続けている。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々が脈打っている。棚の中の名前たちと同じリズムだった。呼応している。巾着(きんちゃく)の中の神たちが、原本の記憶を感じ取っている。


 あさひが先に歩き出した。

 棚と棚の間の通路は狭く、肩が氷に触れるたびに冷気が服を貫いた。あさひは腕を体に寄せ、剣の(さや)が棚に当たらないよう慎重に進んだ。普段なら狭い場所で身を縮めることを嫌がるあさひが、この通路では一言も文句を言わなかった。棚の中で眠っている名前たちに、触れまいとしているのだと、こよいには分かった。


 久遠(くおん)が後ろから義眼(ぎがん)の光を足元だけに絞って照らしている。棚を起こさないための配慮だった。薄い蒼光(そうこう)が石の床を這い、三人の足元だけを浮かび上がらせた。


 通路の奥に、空気の流れを感じる。


 風ではない。


 温度差による対流だった。


 奥に、この空洞(くうどう)より更に冷たい場所がある。


 「こっちだ」


 あさひが(あご)で示した通路を抜けた瞬間、空気が変わった。冷たさの質が違う。棚のある空洞(くうどう)の冷たさは、保存のための冷たさだった。ここの冷たさは、拒絶のための冷たさだ。入ってくるなと言っている。


 壁面全体が氷で覆われた空間が開けていた。

 棚はなかった。


 代わりに、氷の柱が等間隔に並んでいる。

 柱の表面に、文字とも模様ともつかない刻みが走っていた。今まで見たどの文字とも違う。


 古い。


 文字が生まれる前の、文字の祖先のようなものだった。見ているだけで、目の奥が痛くなる。視覚で処理できる情報の限界を超えているのではなく、そもそも目で読むために作られていない刻みだった。


 久遠(くおん)が足を止めた。

 義眼(ぎがん)が大きく見開かれた。


 「聖域(せいいき)だ」


 声が(かす)れていた。久遠(くおん)の声が(かす)れるのを、こよいは初めて聞いた。


 「経蔵(きょうぞう)の最深部を守る、氷の聖域(せいいき)目録(もくろく)にだけ記述があった場所だ。実在するとは——思わなかった」


 あさひが久遠(くおん)を見た。久遠(くおん)が「思わなかった」と口にするのは珍しいことだった。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を開いた。指先が震えている。知識が目の前に実体を持って現れた驚きが、理性を一瞬だけ超えていた。(ページ)をめくる手が止まり、ある行を義眼(ぎがん)の光で照らした。灰色に塗り潰されていた箇所の一部が、ここに来たことで薄く浮かび上がっている。


 柱の刻みが、義眼(ぎがん)の光に触れることなく、自ら光り始めた。

 淡い金色だった。


 三人が近づいたことに反応して、柱そのものが動き出そうとしている。氷の柱が(きし)む音が、低く、長く、空洞(くうどう)の壁に反響した。


 こよいの巾着(きんちゃく)が激しく脈打った。

 中で何かが跳ねるように動いている。

 この場所を、覚えている。


 巾着(きんちゃく)が、ではない。


 巾着(きんちゃく)の中にいる神たちが、かつてこの場所にいたことがある。


 氷の柱の光が強まった。

 天井のない空洞(くうどう)の闇を、金色が静かに染め上げていった。こよいの(ほお)を、温かい光が()でた。氷の聖域(せいいき)なのに、この光だけは温かい。

 おたまが、光の中へ歩いていった。金色に染まる氷の床の真ん中に座り、目を閉じる。初めての場所のはずなのに、猫の背中は、帰ってきたようにくつろいでいた。


 巾着(きんちゃく)の中の神々が、震えるのをやめた。怯えてではなく、ようやく安堵(あんど)したように、静かに、深く、脈打っていた。

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