第222話 原初の欠け
金色の光が収まると、聖域は再び暗くなった。
だが先ほどとは暗さの質が違う。拒絶の暗さではなく、静寂の暗さだった。三人が立っていることを、聖域が認めたような暗さだった。
氷の柱は、どれも同じ形には見えなかった。
まっすぐ立っているはずなのに、見る角度によって僅かに傾いて見える。表面には文字に似た刻みが走っていたが、読もうとすると輪郭がぼやけた。首を傾げても、目を細めても同じだった。文字のほうが逃げている。読まれることを拒んでいるのか、読まれる前の状態に留まろうとしているのか。
こよいは一番近い柱に手を伸ばし、途中で止めた。
触れてはいけない、と風の神が先に教えたからだ。布越しに、鋭く震えている。警告の振動だった。
足元の氷は透き通っていなかった。
乳白色の中に小さな泡のようなものが閉じ込められていて、踏むたびに足裏から微かな振動が伝わる。泣いているのか、呼んでいるのか、見分けのつかない響きだった。あさひが足を止め、靴底の感触を確かめるように片足に体重をかけた。
「割れるか」
久遠が首を振った。
「氷ではなく、記録の層だ。踏んでも壊れない。俺たちが壊せるものじゃない」
久遠が義眼を上げる。
蒼光が柱の中央を射抜いた。
その瞬間、一本の柱だけが内側から淡く光った。
その柱の根元には、おたまが先に座っていた。いつからそこにいたのか、誰も知らない。
「……いた」
久遠の声が変わった。
「そこか?」
あさひが問う。
久遠は頷き、目録を握る指に力を込めた。
「記録じゃない。もっと前だ。記録が始まる前の、最初の欠けがここにある」
こよいは息を呑んだ。記録が始まる前。名前が記録される前に、何かが壊れていたということだ。壊れたから記録が始まったのか。記録するために壊したのか。どちらなのかが、まだ分からない。
目録の文字が薄くなった。蒼光が柱に吸い取られるように流れ、頁から色が抜けていく。久遠の額に汗が浮いたが、手は止めなかった。
「欠け……?」
こよいが訊き返す。
「名前が最初に壊れた場所だ。三つの町の井戸にあった凍結も、流失も、埋没も、全部この欠けから始まっている。ここが、全ての起点だ」
義眼の蒼光が震えていた。久遠が感情を見せるのは珍しい。だがこれは興奮ではなかった。こよいには分かった。恐れている。探していたものを見つけてしまった者の、静かな恐怖だった。
久遠は義眼を細めたまま、光る柱の根元を見つめた。
「ここに、名前のない氷片がある。観測者が最初に取り出して、戻せなくなった欠片だ」
柱の影が動いた。
あさひが一歩前に出る。
抜刀は一度だけだった。
刃が影を斜めに裂き、砕けた氷の粉が空中に散る。影は形を持たない。人の形でも獣の形でもなく、氷の聖域が侵入者を排除するために作り出した拒絶の塊だった。二体目が寄るより先に、あさひは足を捻って位置を変えた。最小限の動きで、柱とこよいたちの間に身体を置く。
「久遠、読むなら今だ」
短い声だけが飛ぶ。
久遠は頷き、蒼光の出力を上げた。柱の内側で、名前のない氷片が白く浮かび上がる。掌ほどの大きさの、角の丸い欠片だった。他の氷とは明らかに質が違う。周囲の氷が静かな青白さを持っているのに、この欠片だけが透明だった。何も刻まれていない。名前が入る前の、空白のままの氷。
こよいは柱に近づいた。
「この欠片を戻したら、神様たちは自分の言葉を取り戻せるの?」
声が小さかった。けれど氷の聖域には他に音がなく、その言葉だけが柱の間を漂った。
久遠はすぐに答えなかった。
蒼光が欠片の表面をなぞるように動いてから、低く言う。
「わからない。欠けた時間が長すぎる。ただ——」
義眼を落とす。目録の頁が一枚、ひとりでにめくれた。風はないのに。
「戻す方法は、この先にある。経蔵の、もっと深い場所に。この欠片を持ち出すことはできないが、戻し方を知ることはできるはずだ」
あさひが三体目の影を斬り払った。
刃についた氷の粉が、金色の光を受けて淡く発光し、霧のように消えた。あさひは剣を振って粉を落とし、刃を確認した。刃こぼれはない。影に実体がないからだ。斬った感触だけがあり、手応えがない。
「終わったか」
あさひが肩越しに振り返る。影はもう動いていなかった。柱の根元に吸い込まれるように消えた。聖域の防御が止まったのではなく、三人がここにいることを許したように見えた。
こよいは氷の床に膝をつき、光る柱の根元に掌を翳した。
冷たい。
けれど、その冷たさの奥に、かすかな温もりがあった。何千年も氷の中で、自分の名前を忘れないように繰り返していた誰かの、最後の体温のようなもの。
こよいは目を閉じた。温もりに集中する。名前は聞こえない。声も聞こえない。だが繰り返しの気配がある。同じ動作を、途方もなく長い時間、一人で続けている気配。誰にも見られず、誰にも触れられず、ただ自分の名前を——。
指先が震えた。泣きそうになったが、涙は出なかった。涙が出る前に、怒りが来た。こんなに長い間、一人にしてはいけなかった。
雨の神が応えるように脈打ち、その熱がこよいの手首を伝って掌に届いた。氷の中の温もりと、雨の神の温もりが、こよいの掌の上で重なった。
「……待っててね」
声は氷に吸い込まれた。返事はなかった。
だが温もりが、ほんの少しだけ強くなった気がした。
こよいは立ち上がり、巾着を胸に抱いた。
膝についた氷の冷たさが太腿に残っている。けれど掌の温もりは消えなかった。氷の床に膝をつけていた場所だけが、僅かに曇っていた。こよいの体温が氷に移った痕だった。
久遠が目録を閉じ、義眼の光を前方へ向けた。
「行こう。経蔵の深部に、原本の続きがある」
あさひが剣を肩に担ぎ直す。氷の粉を拭いもせず、短く笑った。
「約束したんだ。待っててって」
こよいが立ち上がりながら言った。久遠にでもあさひにでもなく、柱の根元に向かって。
三人が歩き出すと、柱の刻みが最後に一度だけ光った。
こよいの巾着が、それに応えるように温かく脈打った。




