第022話 助け
意識が、途切れ途切れになっていた。
木漏れ日が、ぼんやりと見える。
地面の冷たさが、頬に伝わる。
どこにいるのか、分からない。
どれくらい歩いたのか、覚えていない。
ただ、もう動けないということだけが、分かった。
額が、熱い。
血が、まだ流れている気がする。
左腕が、痛い。体中が、痛い。
呼吸が浅い。吸い込んでも、空気が肺の奥まで届かない。指先から、感覚が徐々に消えていく。
「……だいじょうぶ」
祠の神の声が、遠くから聞こえた。
「……いる」
「……まだ、いる」
空き地の神の声も。
神々の声が、こよいを繋ぎ止めている。
消えそうな意識を、かろうじて繋いでいる。でも、もう限界だ。
目を閉じたら、もう開かないかもしれない。
それでも、瞼が重い。
そのとき。
足音が聞こえた。
近づいてくる。
人の足音。
観測者か。
追いつかれたのか。
体が、動かない。
逃げようとしても、指一本動かせない。
足音が、止まった。
すぐ近くで。
「……生きてるか」
声が聞こえた。
低い声。でも、観測者の声とは違う。
抑揚がある。人間らしい声。
目を開けようとした。
視界がぼやける。顔が、見えない。
ただ、誰かがいる。こよいを見下ろしている。
「ひどいな……」
その人が、呟いた。
「動くな。今、手当てする」
何かが、こよいの体を持ち上げた。
背負われている。誰かの背中に。
「しっかりしろ。まだ死ぬな」
揺れる。一歩ごとに、体が揺れる。
誰かの体温が、背中を通して伝わる。観測者の気配とは違う。冷たくない。人間の温度だ。
意識が、また遠くなっていく。
「……だれ」
声が、出た。かすれた声。
「喋るな。血が出る」
暗くなっていく。
視界が、狭くなっていく。
だが、神々の声だけは、まだ聞こえていた。
「……だいじょうぶ」
「……わるいひと、じゃない」
「……たぶん」
それを最後に、意識が途切れた。
◇
目を開けた。
天井が見えた。岩の天井。洞窟の中だ。
薄暗い。でも、近くで何かが光っている。
油灯だ。小さな炎が、揺れている。
岩肌が、炎の光を受けて赤みを帯びている。洞窟の奥から、水が滴る音が微かに響いていた。空気は冷たいが、どこからか温もりが漂っている。
誰かが、火を焚いてくれていたのだ。
体の下には、何かが敷いてあった。毛皮のような粗い感触だ。岩の冷たさが直接肌に触れないよう、気を使ってくれていた。
「……」
声を出そうとしたけど、喉が乾いていた。
「起きたか」
声がした。
首を動かした。痛い。でも、動く。
誰かが、そこにいた。
壁に背を預けて、座っている。
顔は、よく見えない。油灯の光が、逆光になっている。
影の輪郭から、長い腕と広い肩幅が読み取れる。座り方は穏やかだが、その空気には張り詰めものがある。
「ここは……」
「森の中の隠れ家だ」
その人が答えた。
「観測者は、ここまでは来ない。たぶん」
観測者。
その言葉で、記憶が戻ってきた。
逃げていた。追われていた。崖から落ちた。血を流した。
「……あなたは」
「境の里の者だ」
短く答えた。
「お前が森に逃げ込んだのを見て、追いかけてきた」
境の里の人。
あの騒ぎの中で、追いかけてきてくれたのか。
「傷は、塞いでおいた」
その人が言った。
「額は深いが、命に別状はない。左腕は打撲だ。折れてはいない」
こよいは、自分の体を見た。
額に、布が巻かれている。左腕も、何かで固定されている。
手当てしてくれたのだ。
布は丁寧に巻かれていた。きつすぎず、緩すぎず。慣れた手つきで処置したことが分かる。包帯からは、薬草の匂いがした。苦くて、青い匂い。
こよいは、左腕をそっと動かしてみた。関節がきしむが、骨は折れていない。布の下の肌に、薬草の成分が滲んでいるのか、微かな熱が残っていた。
「……なぜ」
こよいは聞いた。
「……どうして、助けてくれたの?」
沈黙。
油灯の炎が、揺れている。
その人の顔が、一瞬だけ見えた。背の高い少年。厳しい顔。でも、目は穏やかだった。
「集め手を見捨てるわけにはいかない」
その人が言った。
「お前が運んでいるものは、里にとっても大切なものだ」
集め手。
この人も、知っている。こよいが何者か、知っている。
「観測者に追われていただろう」
その人が続けた。
「あいつらは、境を越えてきた。里は今、大騒ぎだ」
「里人たちは……」
「無事だ。あいつらは、お前だけを追っていた。里人には手を出さなかった」
それを聞いて、少しだけ安心した。
里の人たちが、時間を稼いでくれた。あの叫び声。無理やり押し開けられた木戸。みんなが、こよいのために動いてくれた。そのおかげで、今、ここにいる。
巾着を握る指に、少しだけ力が戻った。
「水、飲めるか」
竹筒を差し出された。
こよいは、それを受け取った。水が、喉を潤す。冷たい。おいしい。乾き切った唇に沁みて、体の芯まで染み渡るようだった。
竹筒は、使い込まれたもので、表面に無数の細い割れ目が入っていた。飲み干した後、こよいはそれを自分の膝の脇に置いた。
「しばらく、ここにいろ」
声の主は、淡々と言った。
「傷が癒えるまで、動くな」
こよいは、頷いた。
頷きながら、考えていた。
この人は、本当に味方なのか。
本当に、信用していいのか。
巾着に、手を伸ばした。
腰にある。無事だ。中の神々も、いる。
「……どう?」
心の中で聞いた。
「……わからない」
祠の神の声。
「……ようすをみて」
空き地の神の声。
神々も、判断がつかないらしい。でも、少なくとも、警戒はしていない。巾着の温度が穏やかなことが、その証だった。
巾着は、冷たくない。
こよいは、そのまましばらく目を閉じていた。水滴の音と、自分の呼吸だけが、洞窟の中に響いている。
少年は、静かに立ち上がった。
体格の良い背中が、油灯の光に淡く浮かぶ。洞窟の奥へと歩き出す。岩肌を踏む足音が、規則的に響いた。
こよいは、その背中を見つめた。
境の里の人。集め手のことを知っている人。
助けてくれた人。
この温かさを、信じてもいいのか。
分からない。
まだ、なにも分からない。




