第210話 連鎖の終焉へ
久遠が目録を膝の上に広げた。
井戸の傍らで刻んだ三角形の頁を開く。残った頁は十に満たない。指先に蒼い光を灯し、薄れかけた線をなぞり直す。だが光が揺れた。以前なら頁全体を照らせた蒼光が、今は指先から数寸しか届かない。久遠は一瞬だけ手を止め、息を吐いた。それから何事もなかったように、再びなぞり始めた。
霜里の氷の結晶。線が細い。あの井戸に降りたとき、蒼光は壁一面の文字を浮かび上がらせた。その力の残照にしては、あまりに頼りなかった。
星降町の水の波紋。なぞり終えるまでに、最初に刻んだときの倍の時間がかかっている。久遠の額に薄く汗が滲んでいた。
海図の町の泥の渦。最後の一画をなぞり終えたとき、義眼の光がちらついた。
三角形がかろうじて浮かび直した。中心の十字は、蒼光を当てなければもう見えない。
「中陵。ここまでの道は、まだ保っている」
こよいは三角形を覗き込んだ。三つの町が夜空の星座のように並んでいる。蒼い線は淡く、目を凝らさなければ見えなかった。十字の印が、三角の中心で小さく明滅し、やがて紙に沁み込むように消えた。
「観測者が組んだ鎖が、この三角なんだね」
「ああ。三つの保存形式で名前を固定し、経蔵への道を封じた。氷で凍らせ、水で流し、泥で埋めた。俺たちはその三つを全部通った」
「つまり鎖を解いた」
「解いたんじゃない。鎖の中身を見た。見た者にだけ、中陵への道が開く」
久遠は目録を閉じた。表紙に手を置いたまま、しばらく動かなかった。革の手触りを確かめているようだった。閉じた途端、蒼光が消えた。義眼に光を灯し続けるだけの力が、もう余っていないのだ。
腰の巾着が、微かに脈を打った。
こよいは手を添えた。紐の隙間から、三色の混ざった淡い光がわずかに漏れている。だが霜里で見た輝きに比べれば、消え残りの蝋燭のような弱さだった。三つの井戸を巡るたび、神々は力を注いでくれた。その分だけ、今は静かだった。
あさひが壁に背をつけたまま、腕を組み直した。
「経蔵に入ったら何が変わる」
久遠の表情が引き締まった。
「この目録が無意味になる」
「無意味」
「今まで俺が読んできたのは写しだ。それも今は、記憶から書き戻した——写しの写しだ。経蔵には原本がある。並んだ瞬間、こちらは——ただの紙に戻る」
久遠は目録の表紙を指先で撫でた。何百もの名前を記録してきた頁。蒼い光で照らし、読み解き、三人の道標にしてきた帳面。それが、紙に戻る。
「覚悟はしてる」
久遠の声が低くなった。
「だが——原本を前にして、この手が帳面を離せるかどうかは、分からない」
あさひが鼻を鳴らした。
「写しは臆病者の道具だ」
久遠が顔を上げた。
一瞬の間があり、口の端がわずかに持ち上がった。笑いではない。もっと小さな、認めるときの表情だった。
「……かもしれんな」
沈黙が落ちた。三人とも疲れていた。口を開く力すら惜しいような、そういう沈黙だった。
駅舎の奥で、霧列車の汽笛が鳴った。低く、長い音が海図の町の泥の匂いを押し流していく。
三人は立ち上がった。
こよいが壁から背を離したとき、膝が重かった。三つの井戸を降り、三つの町を歩き、三つの記録に触れた足だ。疲労は脚だけではない。巾着を通じて神々の消耗が沁みてきているのだと、こよいは気づいていた。身体の芯にある温度が、すこしずつ下がっている。自分自身の冷えではなかった。神々の冷えだった。
あさひが先に歩き出した。歩幅がいつもより狭い。剣の鞘が腰骨に当たるたびに、乾いた音がした。振り返らない。ただ足を運んでいる。
ホームに出ると、列車は白い霧を纏って停まっていた。車体の輪郭がぼやけて、どこまでが列車でどこからが霧なのか判然としない。扉が開く。中は空——ではなかった。おたまが、一番奥の座席の上で丸くなっていた。誰より早く。いつものように。三人が乗り込む気配に、耳だけがひとつ動いた。座席の布が湿り、天井に水滴が並んでいる。猫一匹のほかに誰もいないのに、車内には長く留まった沈黙の気配があった。
こよいが最初に乗り込んだ。ステップに足をかけたとき、靴底に海図の町の泥がまだ残っているのを感じた。あさひが続き、久遠が最後に乗った。久遠は乗り込む前に一度だけ振り返り、駅舎を見た。何を見ていたのかは聞かなかった。扉が閉まる。
汽笛が短く二度鳴り、列車が動き出した。
窓の霧が薄くなっていく。
海図の町の屋根が遠ざかった。その向こうに星降町の塔がかすみ、さらに遠くに霜里の白い稜線が浮かんでいる。三つの町が、夜明け前の空に三つの光点として並んでいた。
だがその光も、こよいの目にはどこか薄く映った。色が一枚、剥がれたような景色だった。町の灯りも空の明暗も、すべてが同じ灰色の濃淡に沈みかけている。三つの井戸を巡る前の世界には、もっと色があったはずだった。
久遠が窓に手をつき、目を細めた。義眼の蒼光が窓硝子に薄く反射している。その光も以前より暗い。
「星座みたいだな」
声に力がなかった。感慨ではなく、見たものをそのまま口にしただけの言葉だった。
こよいは頷いた。巾着が胸の前で静かに脈を打っている。三つの井戸の記憶が混ざり合い、ひとつの温度になっていた。だがその温度は、手に持った雪のようにゆっくりと減っていく。
あさひは目を閉じ、剣を膝の上に横たえた。柄を握る指に力がない。握っているというより、置いているだけだった。
車内に音がなかった。車輪が線路を叩く規則的な振動だけが、座席の下から伝わってくる。がたん、がたん。その単調な拍子が、かえって静けさを深くした。
こよいは巾着を膝の上に下ろし、両手で包んだ。自分の体温を少しでも送るように。神々の脈が遠い。とくん、と一度打って、長い沈黙のあと、またとくん。その間隔の長さが、こよいの胸を締めた。
列車が加速する。三つの光点が窓の端へ流れ、やがて霧に呑まれた。
振り返っても、もう見えない。
巾着の脈だけが、かすかに続いていた。




