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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第7章 灯の距離

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210/250

第210話 連鎖の終焉へ

挿絵(By みてみん)


久遠(くおん)目録(もくろく)(ひざ)の上に広げた。

 井戸(いど)(かたわ)らで刻んだ三角形の(ページ)を開く。残った(ページ)は十に満たない。指先に蒼い光を(とも)し、薄れかけた線をなぞり直す。だが光が揺れた。以前なら(ページ)全体を照らせた蒼光(そうこう)が、今は指先から数寸しか届かない。久遠(くおん)は一瞬だけ手を止め、息を吐いた。それから何事もなかったように、再びなぞり始めた。


 霜里(しもざと)の氷の結晶。線が細い。あの井戸(いど)に降りたとき、蒼光(そうこう)は壁一面の文字を浮かび上がらせた。その力の残照にしては、あまりに頼りなかった。


 星降町(ほしふりまち)の水の波紋(はもん)。なぞり終えるまでに、最初に刻んだときの倍の時間がかかっている。久遠(くおん)の額に薄く汗が(にじ)んでいた。


 海図の(かいずのまち)の泥の(うず)。最後の一画をなぞり終えたとき、義眼(ぎがん)の光がちらついた。


 三角形がかろうじて浮かび直した。中心の十字は、蒼光(そうこう)を当てなければもう見えない。


 「中陵(ちゅうりょう)。ここまでの道は、まだ保っている」


 こよいは三角形を(のぞ)き込んだ。三つの町が夜空の星座のように並んでいる。蒼い線は淡く、目を()らさなければ見えなかった。十字の印が、三角の中心で小さく明滅し、やがて紙に()み込むように消えた。


 「観測者(かんそくしゃ)が組んだ鎖が、この三角なんだね」


 「ああ。三つの保存形式で名前を固定(こてい)し、経蔵(きょうぞう)への道を封じた。氷で凍らせ、水で流し、泥で埋めた。俺たちはその三つを全部通った」


 「つまり鎖を解いた」


 「解いたんじゃない。鎖の中身を見た。見た者にだけ、中陵(ちゅうりょう)への道が開く」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を閉じた。表紙に手を置いたまま、しばらく動かなかった。革の手触りを確かめているようだった。閉じた途端、蒼光(そうこう)が消えた。義眼(ぎがん)に光を灯し続けるだけの力が、もう余っていないのだ。


 腰の巾着(きんちゃく)が、微かに脈を打った。

 こよいは手を添えた。(ひも)の隙間から、三色の混ざった淡い光がわずかに漏れている。だが霜里(しもざと)で見た輝きに比べれば、消え残りの蝋燭(ろうそく)のような弱さだった。三つの井戸(いど)を巡るたび、神々は力を注いでくれた。その分だけ、今は静かだった。


 あさひが壁に背をつけたまま、腕を組み直した。


 「経蔵(きょうぞう)に入ったら何が変わる」


 久遠(くおん)の表情が引き締まった。


 「この目録(もくろく)が無意味になる」


 「無意味」


 「今まで俺が読んできたのは写しだ。それも今は、記憶から書き戻した——写しの写しだ。経蔵(きょうぞう)には原本がある。並んだ瞬間、こちらは——ただの紙に戻る」


 久遠(くおん)目録(もくろく)の表紙を指先で()でた。何百もの名前を記録してきた(ページ)。蒼い光で照らし、読み解き、三人の道標(みちしるべ)にしてきた帳面。それが、紙に戻る。


 「覚悟はしてる」


 久遠(くおん)の声が低くなった。


 「だが——原本を前にして、この手が帳面を離せるかどうかは、分からない」


 あさひが鼻を鳴らした。


 「写しは臆病者の道具だ」


 久遠(くおん)が顔を上げた。

 一瞬の間があり、口の端がわずかに持ち上がった。笑いではない。もっと小さな、認めるときの表情だった。


 「……かもしれんな」


 沈黙が落ちた。三人とも疲れていた。口を開く力すら惜しいような、そういう沈黙だった。


 駅舎(えきしゃ)の奥で、霧列車(きりれっしゃ)汽笛(きてき)が鳴った。低く、長い音が海図の(かいずのまち)の泥の匂いを押し流していく。


 三人は立ち上がった。

 こよいが壁から背を離したとき、(ひざ)が重かった。三つの井戸(いど)を降り、三つの町を歩き、三つの記録に触れた足だ。疲労は脚だけではない。巾着(きんちゃく)を通じて神々の消耗が()みてきているのだと、こよいは気づいていた。身体の(しん)にある温度が、すこしずつ下がっている。自分自身の冷えではなかった。神々の冷えだった。


 あさひが先に歩き出した。歩幅がいつもより狭い。剣の(さや)が腰骨に当たるたびに、乾いた音がした。振り返らない。ただ足を運んでいる。


 ホームに出ると、列車は白い(きり)(まと)って停まっていた。車体の輪郭(りんかく)がぼやけて、どこまでが列車でどこからが(きり)なのか判然としない。扉が開く。中は空——ではなかった。おたまが、一番奥の座席の上で丸くなっていた。誰より早く。いつものように。三人が乗り込む気配に、耳だけがひとつ動いた。座席の布が湿り、天井に水滴が並んでいる。猫一匹のほかに誰もいないのに、車内には長く留まった沈黙の気配があった。


 こよいが最初に乗り込んだ。ステップに足をかけたとき、靴底に海図の(かいずのまち)の泥がまだ残っているのを感じた。あさひが続き、久遠(くおん)が最後に乗った。久遠(くおん)は乗り込む前に一度だけ振り返り、駅舎(えきしゃ)を見た。何を見ていたのかは聞かなかった。扉が閉まる。


 汽笛(きてき)が短く二度鳴り、列車が動き出した。


 窓の(きり)が薄くなっていく。

 海図の(かいずのまち)の屋根が遠ざかった。その向こうに星降町(ほしふりまち)の塔がかすみ、さらに遠くに霜里(しもざと)の白い稜線(りょうせん)が浮かんでいる。三つの町が、夜明け前の空に三つの光点として並んでいた。


 だがその光も、こよいの目にはどこか薄く映った。色が一枚、()がれたような景色だった。町の(あか)りも空の明暗も、すべてが同じ灰色の濃淡に沈みかけている。三つの井戸(いど)を巡る前の世界には、もっと色があったはずだった。


 久遠(くおん)が窓に手をつき、目を細めた。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)窓硝子(まどがらす)に薄く反射している。その光も以前より暗い。


 「星座みたいだな」


 声に力がなかった。感慨ではなく、見たものをそのまま口にしただけの言葉だった。


 こよいは(うなず)いた。巾着(きんちゃく)が胸の前で静かに脈を打っている。三つの井戸(いど)の記憶が混ざり合い、ひとつの温度になっていた。だがその温度は、手に持った雪のようにゆっくりと減っていく。


 あさひは目を閉じ、剣を(ひざ)の上に横たえた。(つか)を握る指に力がない。握っているというより、置いているだけだった。


 車内に音がなかった。車輪が線路を叩く規則的な振動だけが、座席の下から伝わってくる。がたん、がたん。その単調な拍子が、かえって静けさを深くした。


 こよいは巾着(きんちゃく)(ひざ)の上に下ろし、両手で包んだ。自分の体温を少しでも送るように。神々の脈が遠い。とくん、と一度打って、長い沈黙のあと、またとくん。その間隔の長さが、こよいの胸を締めた。


 列車が加速する。三つの光点が窓の端へ流れ、やがて(きり)()まれた。


 振り返っても、もう見えない。

 巾着(きんちゃく)の脈だけが、かすかに続いていた。

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