第211話 神々の黄昏
巾着の光が消えかけていた。
こよいは膝の上の布袋を見下ろした。紐の隙間から漏れていた銀の光が、今はほとんど見えない。指先で触れると、かすかに温かいだけだった。
月の神の銀光は、霜里で氷を照らしたときの十分の一もない。
風の神は動かない。星降町で吹いた風が嘘のように、車内の空気はどこまでも静かだった。
硝子の神が冷たい。
いつもの冷気ではない。冷えすぎて、もう冷たさすら感じない。それが怖かった。
こよいは巾着を胸に押し当てた。自分の体温を分けるように、両手で包む。
『……つめたい……』
声は震えていた。息の端が擦れるような、かぼそい音だった。雨の神の声だと思う。だが確かではない。四柱の気配がどれも薄くなっていて、見分けがつかない。
「大丈夫。ぼくがいるから」
返事はなかった。
巾着の脈が、とくん、と一度だけ打って止まった。数秒後にまた打つ。間隔が長い。
三つの井戸で、神々は力を使いすぎた。霜里の氷に共鳴し、星降町の水に応え、海図の町の泥に沈んだ。そのたびに光を放ち、記録を照らし、道を示してくれた。
その代償が、これだ。
久遠は向かいの座席で、目録を開いていた。
頁のほとんどが白い。文字が消えたのではない。最初から白かったかのように、紙だけが残っている。久遠は残った数枚を、一枚ずつゆっくりと繰った。
枯葉を扱うような手つきだった。
蒼い義眼の光も弱い。以前は頁を照らすだけで文字が浮かんだのに、今は目を凝らさなければ読めない。久遠はそのことに触れなかった。黙って頁を繰り、残った文字を目に焼きつけている。
「何枚残ってる」
あさひの声だった。
「四枚。読めるのは三枚」
「足りるのか」
「中陵まで持てばいい」
短い言葉だった。だがその裏にあるものを、こよいは聞き取った。持てばいい、というのは、持たなければ終わるという意味だ。
久遠が目録を閉じ、表紙を指先で撫でた。
革の表紙は最初より薄くなっている。中身が減ったのではなく、存在そのものが軽くなっているのだと、こよいは思った。名前が抜け落ちるたびに、帳面もまた消えていく。
久遠の手が、一瞬だけ震えた。すぐに握り込んで止めたが、こよいは見ていた。
窓の外を見た。
色がなかった。
霧でもない。灰色でもない。ただ、色という概念が抜け落ちたような景色が流れている。木も草も空もあるはずなのに、どれも同じ明度の中に沈んでいた。輪郭だけが線画のように残り、その内側には何もない。
車輪が線路を叩く音だけが、一定の間隔で響いている。
がたん、がたん。それ以外の音はない。
こよいの目に、涙が溜まった。
誰かの名前を思い出したわけではない。悲しいのでもない。ただ、巾着の冷たさが指を通り、掌を抜け、胸の奥の一番やわらかい場所まで届いたとき、目が勝手に濡れた。理由のない涙だった。涙に理由があるのだと思っていたのは、泣いたことの少ない子どもの考えだったのだと、今になってわかる。
涙が一粒、巾着の布に落ちた。
神々の力が染みた場所だけ、光がほんのわずかに戻った。消えかけていた銀が、涙の水分に反応したように滲んで明るくなる。一秒、二秒。三秒目にはまた元の暗さに沈んだ。
こよいは息を止めた。
見間違いではなかった。涙が触れた場所だけ、消えかけた光が一瞬だけ灯った。
もう一粒が落ちた。同じだった。銀の滲みが淡く広がり、消え、また暗くなる。まるで、名前を呼んでも返事がないのに、それでも呼び続けるような——そんな光の点滅だった。
三粒目は、紐の結び目に落ちた。布の繊維が涙を吸い、そこから銀が枝のように伸びた。巾着の底まで光の筋が走り、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、四柱の気配がはっきりと分かれた。月と風と硝子と雨。それぞれの輪郭が涙の中で浮かび上がり、そしてまた溶け合って消えた。
こよいは声を殺して泣いた。泣きたかったのではない。体が泣いていた。冷たいものを抱き続けた手が、もう他に差し出せるものを見つけられなくて、涙だけが余っていた。それでも、涙だけは確かに、光を連れてきた。
久遠が頁を繰る手を止めた。こよいの膝の上の巾着を見ている。涙の跡が乾きかけた布地と、その上でかすかに明滅する銀の残像を。
何か言いかけて、口を閉じた。代わりに義眼の光を落とし、目録に視線を戻した。記録する者が、記録できないものを目の前にしたときの沈黙だった。
あさひは目を閉じていた。
剣を膝の上に横たえ、両手を柄に置いている。眠っているのではない。呼吸が浅く、速い。何かに備えている呼吸だった。だが、何に備えているのかは本人にもわからないのだろう。目を開ける理由がないから、閉じている。そういう顔だった。
あさひの指が、ときどき剣の柄を握り直す。無意識だろう。鍔のあたりに乾いた泥がこびりついていた。海図の町の泥。あさひもまた、三つの井戸の痕跡を身に纏っている。
車内に沈黙が満ちた。
三人と、弱った四柱の神と、白くなった目録と、色のない窓の外。列車だけが動いている。がたん、がたん。がたん、がたん。
こよいは巾着を抱いたまま、目を閉じた。
胸に押し当てた布の下で、かすかな脈が続いている。長い間隔で、とくん、とくん。消えそうで、消えない。
その脈に自分の呼吸を合わせた。
吸って、待って、吐いて、待つ。神々の鼓動に寄り添うように。
頬の涙は拭わなかった。拭えば、さっき見えた光も一緒に消えてしまう気がした。濡れたままの顔で、巾着の温度を待つ。冷たい。まだ冷たい。けれど、涙が触れた場所だけが、ほんのかすかに温い。
窓の外の灰色が、少しだけ暗くなった。
列車が夜に入ったのか、それとも世界の色がさらに薄くなったのか。どちらでも同じだった。
巾着の中で、何かが微かに動いた。光ではない。もっと小さな、震えのようなもの。寒さに耐えている指先が、ほんの少しだけ力を込めたような。
膝の上に、ふわりと重みが加わった。
おたまが、巾着ごとこよいの膝に乗ったのだ。冷えた布袋に自分の腹を押し当て、丸くなる。猫の体温が、布越しにゆっくり染みていく。巾着の脈が、ほんのわずかに、間隔を縮めた。
こよいは両手の力を強めた。
温かさが足りないなら、全部あげる。そう思った。猫が先に、同じことをしていた。
車輪の音だけが、変わらず刻んでいる。




