表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第7章 灯の距離

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
211/250

第211話 神々の黄昏

挿絵(By みてみん)


巾着(きんちゃく)の光が消えかけていた。

 こよいは(ひざ)の上の布袋を見下ろした。(ひも)の隙間から漏れていた銀の光が、今はほとんど見えない。指先で触れると、かすかに温かいだけだった。


 月の神の銀光は、霜里(しもざと)で氷を照らしたときの十分の一もない。

 風の神は動かない。星降町(ほしふりまち)で吹いた風が(うそ)のように、車内の空気はどこまでも静かだった。


 硝子(びいどろ)の神が冷たい。

 いつもの冷気ではない。冷えすぎて、もう冷たさすら感じない。それが怖かった。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に押し当てた。自分の体温を分けるように、両手で包む。


 『……つめたい……』


 声は震えていた。息の端が擦れるような、かぼそい音だった。雨の神の声だと思う。だが確かではない。四柱の気配がどれも薄くなっていて、見分けがつかない。


 「大丈夫。ぼくがいるから」


 返事はなかった。

 巾着(きんちゃく)の脈が、とくん、と一度だけ打って止まった。数秒後にまた打つ。間隔が長い。


 三つの井戸(いど)で、神々は力を使いすぎた。霜里(しもざと)の氷に共鳴し、星降町(ほしふりまち)の水に応え、海図の(かいずのまち)の泥に沈んだ。そのたびに光を放ち、記録を照らし、道を示してくれた。


 その代償が、これだ。


 久遠(くおん)は向かいの座席で、目録(もくろく)を開いていた。


 (ページ)のほとんどが白い。文字が消えたのではない。最初から白かったかのように、紙だけが残っている。久遠(くおん)は残った数枚を、一枚ずつゆっくりと()った。


 枯葉を扱うような手つきだった。


 蒼い義眼(ぎがん)の光も弱い。以前は(ページ)を照らすだけで文字が浮かんだのに、今は目を()らさなければ読めない。久遠(くおん)はそのことに触れなかった。黙って(ページ)()り、残った文字を目に焼きつけている。


 「何枚残ってる」


 あさひの声だった。


 「四枚。読めるのは三枚」


 「足りるのか」


 「中陵(ちゅうりょう)まで持てばいい」


 短い言葉だった。だがその裏にあるものを、こよいは聞き取った。持てばいい、というのは、持たなければ終わるという意味だ。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を閉じ、表紙を指先で()でた。


 革の表紙は最初より薄くなっている。中身が減ったのではなく、存在そのものが軽くなっているのだと、こよいは思った。名前が抜け落ちるたびに、帳面もまた消えていく。


 久遠(くおん)の手が、一瞬だけ震えた。すぐに握り込んで止めたが、こよいは見ていた。


 窓の外を見た。


 色がなかった。

 (きり)でもない。灰色でもない。ただ、色という概念が抜け落ちたような景色が流れている。木も草も空もあるはずなのに、どれも同じ明度の中に沈んでいた。輪郭(りんかく)だけが線画のように残り、その内側には何もない。


 車輪が線路を叩く音だけが、一定の間隔で響いている。

 がたん、がたん。それ以外の音はない。


 こよいの目に、涙が溜まった。

 誰かの名前を思い出したわけではない。悲しいのでもない。ただ、巾着(きんちゃく)の冷たさが指を通り、(てのひら)を抜け、胸の奥の一番やわらかい場所まで届いたとき、目が勝手に濡れた。理由のない涙だった。涙に理由があるのだと思っていたのは、泣いたことの少ない子どもの考えだったのだと、今になってわかる。


 涙が一粒、巾着(きんちゃく)の布に落ちた。

 神々の力が染みた場所だけ、光がほんのわずかに戻った。消えかけていた銀が、涙の水分に反応したように(にじ)んで明るくなる。一秒、二秒。三秒目にはまた元の暗さに沈んだ。


 こよいは息を止めた。


 見間違いではなかった。涙が触れた場所だけ、消えかけた光が一瞬だけ灯った。


 もう一粒が落ちた。同じだった。銀の(にじ)みが淡く広がり、消え、また暗くなる。まるで、名前を呼んでも返事がないのに、それでも呼び続けるような——そんな光の点滅だった。


 三粒目は、(ひも)の結び目に落ちた。布の繊維が涙を吸い、そこから銀が枝のように伸びた。巾着(きんちゃく)の底まで光の筋が走り、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、四柱の気配がはっきりと分かれた。月と風と硝子(びいどろ)と雨。それぞれの輪郭(りんかく)が涙の中で浮かび上がり、そしてまた溶け合って消えた。


 こよいは声を殺して泣いた。泣きたかったのではない。体が泣いていた。冷たいものを抱き続けた手が、もう他に差し出せるものを見つけられなくて、涙だけが余っていた。それでも、涙だけは確かに、光を連れてきた。


 久遠(くおん)(ページ)()る手を止めた。こよいの(ひざ)の上の巾着(きんちゃく)を見ている。涙の(あと)が乾きかけた布地と、その上でかすかに明滅する銀の残像を。


 何か言いかけて、口を閉じた。代わりに義眼(ぎがん)の光を落とし、目録(もくろく)に視線を戻した。記録する者が、記録できないものを目の前にしたときの沈黙だった。


 あさひは目を閉じていた。


 剣を(ひざ)の上に横たえ、両手を(つか)に置いている。眠っているのではない。呼吸が浅く、速い。何かに備えている呼吸だった。だが、何に備えているのかは本人にもわからないのだろう。目を開ける理由がないから、閉じている。そういう顔だった。


 あさひの指が、ときどき剣の(つか)を握り直す。無意識だろう。(つば)のあたりに乾いた泥がこびりついていた。海図の(かいずのまち)の泥。あさひもまた、三つの井戸(いど)痕跡(こんせき)を身に(まと)っている。


 車内に沈黙が満ちた。


 三人と、弱った四柱の神と、白くなった目録(もくろく)と、色のない窓の外。列車だけが動いている。がたん、がたん。がたん、がたん。


 こよいは巾着(きんちゃく)を抱いたまま、目を閉じた。


 胸に押し当てた布の下で、かすかな脈が続いている。長い間隔で、とくん、とくん。消えそうで、消えない。


 その脈に自分の呼吸を合わせた。

 吸って、待って、吐いて、待つ。神々の鼓動に寄り添うように。


 頬の涙は(ぬぐ)わなかった。(ぬぐ)えば、さっき見えた光も一緒に消えてしまう気がした。濡れたままの顔で、巾着(きんちゃく)の温度を待つ。冷たい。まだ冷たい。けれど、涙が触れた場所だけが、ほんのかすかに(ぬく)い。


 窓の外の灰色が、少しだけ暗くなった。

 列車が夜に入ったのか、それとも世界の色がさらに薄くなったのか。どちらでも同じだった。


 巾着(きんちゃく)の中で、何かが微かに動いた。光ではない。もっと小さな、震えのようなもの。寒さに耐えている指先が、ほんの少しだけ力を込めたような。


 (ひざ)の上に、ふわりと重みが加わった。

 おたまが、巾着(きんちゃく)ごとこよいの膝に乗ったのだ。冷えた布袋に自分の腹を押し当て、丸くなる。猫の体温が、布越しにゆっくり染みていく。巾着(きんちゃく)の脈が、ほんのわずかに、間隔を縮めた。


 こよいは両手の力を強めた。

 温かさが足りないなら、全部あげる。そう思った。猫が先に、同じことをしていた。


 車輪の音だけが、変わらず刻んでいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ