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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第7章 灯の距離

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209/250

第209話 泥の記憶

挿絵(By みてみん)


井戸(いど)は地面と区別がつかなかった。

 霜里(しもざと)では氷柱が立ち、星降町(ほしふりまち)では水面が光った。だが海図の(かいずのまち)井戸(いど)は、ただの(くぼ)みだった。周囲の土と同じ色をした泥が、ゆるやかに膨らんでは沈んでいる。呼吸のように。


 こよいは膝をつき、縁に手を伸ばした。


 泥が指先に触れる。


 温かい。

 霜里(しもざと)の氷でもなく、星降町(ほしふりまち)の水でもない。粘りのある熱が、皮膚の下にまで()みてくる。匂いは湿った土と、古い紙を束ねたときの甘さだった。鼻の奥がじんと(しび)れた。


 「……名前が、沈んでる」


 指を差し入れると、泥の底から微かな振動が返った。凍ってもいない。流れてもいない。ただそこに留まっている。名前が泥に抱かれたまま、眠っている。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を細めた。

 蒼い光が泥の表面を()い、奥へ潜る。しばらく沈黙が続いた。


 「古いな」


 「古い?」


 「観測者(かんそくしゃ)の体系より前だ。記録の枠組みそのものがない。名前がただ土に混じっている。計測の痕跡(こんせき)がどこにもない」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を開いた。(ページ)の文字が泥の色に(にじ)んで読みづらくなっている。義眼(ぎがん)の蒼だけが、暗い井戸(いど)の底を照らしていた。


 「原初の記録だ。観測が始まるよりずっと前の」


 あさひが腕を組んだまま、井戸(いど)の縁を見下ろした。


 「観測者(かんそくしゃ)がいなかった頃、名前はどうしてたんだ」


 「土の中にあった」


 「土の中」


 「名前は世界の一部だった。観測者(かんそくしゃ)がそれを抜き出して、測れるものに変えた。もともとは——こうやって、ただ在っただけだ」


 あさひは眉を寄せ、それから黙った。

 言葉にならない何かを噛んでいる顔だった。


 こよいは両手を泥に沈めた。


 手首まで埋まる。温かさが腕を伝い、胸まで届いた。名前の残響ではない。名前そのものの体温だった。凍結も蒸発もしない。ただ在るという状態。


 巾着(きんちゃく)が腰で脈を打った。

 霜里(しもざと)で得た冷たい震えでも、星降町(ほしふりまち)の澄んだ波紋(はもん)でもない。深く、遅い拍動。地の底から汲み上げられる鼓動のようだった。


 『……あたたかい……』


 声は巾着(きんちゃく)の奥から届いた。どの神のものかわからない。四柱の声が溶け合って、ひとつの吐息になっていた。

 その中で、月の冷え、風の軽さ、硝子(びいどろ)の硬い震え、雨の湿りが、それぞれの調子で泥の温もりに応えていた。

 その吐息とともに、欠けていた三つ目の律動が満ちた。白銀と琥珀(こはく)の光に、深い(あい)が溶け込む。街道で鳴った欠けた和音が、いま初めて三つの音で鳴った。

 神雧(かみあつめ)(たま)が、閉じた。


 こよいは泥の中で指を広げた。


 温かい。

 名前を守るとは、こういうことだったのかもしれない。凍らせるのでもなく、流すのでもなく。ただ包んで、沈めて、待つ。


 そのとき、おたまが井戸(いど)の反対側の縁へ回り込み、泥の一点をじっと見つめた。


 泥が、盛り上がった。


 指が、先に出た。泥だらけの細い指が、黒い粒をひとつ(つま)んで、泥の表面へ置く。それから、()せた肩が、外套(がいとう)ごと泥から浮かび上がった。


 「鈴音(すずね)


 こよいの声が跳ねた。泥の中で名前を拾い続ける、あの掘り手と会うのは、天都(てんと)の泥で別れて以来だった。


 「……ここにも、落ちてた」


 鈴音(すずね)は短く言い、泥の上の黒い粒を指した。名前の(しん)。原初の井戸(いど)にも、漂白で(こぼ)れた芯は沈んでいた。彼女は、名前が落ちる場所を追って、こんな遠くまで来ていたのだ。掘り続けるかぎり、形は保てる。逆に言えば、掘るのをやめれば、溶ける。


 こよいは巾着(きんちゃく)から小瓶を出した。中陵(ちゅうりょう)の北で芯を返して以来、白い(まく)だけを残して空だったその瓶へ、鈴音(すずね)が一粒を、そっと落とした。硝子(ガラス)の底で、乾いた音がひとつ鳴った。


 「持ってて。また、返せる場所があるから」


 「鈴音は、自分の名前は」


 ()きかけて、こよいは口を(つぐ)んだ。鈴音(すずね)の指先が、もう泥の色に透けかけていた。(しゃべ)った分だけ、削れる。


 鈴音(すずね)は少しだけ笑い、泥の底を指した。


 「わたしの(しん)も、どこかの水の底に、落ちてる。……いつか、名前が全部集まる海に行くなら。そこで、わたしを掘って」


 声が途切れ、肩から先が泥へ沈んだ。おたまが、沈む水面(みなも)のいちばん際まで歩き、波紋(はもん)が消えるまで見送った。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を閉じた。(ページ)の端に泥の色がにじんでいる。

 蒼光(そうこう)を消し、(ひざ)の上に帳面を置いた。右手を開いて、表紙の上にそっと被せる。まるで額に触れるように。


 「三つ目だ」


 「うん」


 「霜里(しもざと)星降町(ほしふりまち)、海図の(かいずのまち)。氷と水と泥。三つの井戸(いど)を巡った」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を再び開き、残った白い(ページ)義眼(ぎがん)の蒼で三つの点を刻んだ。右上に氷の結晶。左上に水の波紋(はもん)。そして下に、泥の(うず)。三点を線で結ぶと、薄い三角形が浮かんだ。


 「三点を結べば三角形になる。その中心に——」


 中心に小さく十字を刻む。蒼い光が泥のにじんだ紙の上で揺れた。


 「経蔵(きょうぞう)がある」


 こよいは三角形を(のぞ)き込んだ。三つの町がまるで夜空の星座のように並んでいる。それぞれの井戸(いど)で触れた温度が、指先によみがえった。氷の痛み。水の冷たさ。泥の温もり。三つの感触が手のひらの中で重なって、ひとつの方角を指している。


 「写しを頼りに、俺たちはここまで来た」


 久遠(くおん)の声がわずかに落ちた。


 「この目録(もくろく)は原本じゃない。観測者(かんそくしゃ)が残した記録の、そのまた転写だ。経蔵(きょうぞう)に原本がある以上、写しは——いずれただの紙に戻る」


 声は平坦だった。だが三角形を描いた(ページ)から、指を離さなかった。蒼い線はすでに薄れ始めている。泥の(にじ)みが、星座の輪郭を()み込んでいく。


 あさひが井戸(いど)の縁を()って立ち上がった。


 「惜しいか」


 「惜しい。何百と名前を読んできた。この帳面がなければ、どの井戸(いど)にも辿(たど)り着けなかった」


 「けど原本があるなら、要らないだろう」


 久遠(くおん)は黙った。

 泥の(にじ)みが三角形の最後の一辺を消した。蒼い光はもう、どこにも残っていない。

 それから目録(もくろく)を閉じ、脇に挟んで泥の上に立った。


 「……ああ。要らなくなる」


 その声は惜しむ声ではなかった。手放すと決めた者の、静かな声だった。


 こよいは久遠(くおん)の横顔を見た。義眼(ぎがん)の蒼が、泥の井戸(いど)を映して暗い。けれど暗さの奥に、何か硬いものがあった。折れない種類の覚悟。写しを捨てて原本に向かうという、それだけのこと。それだけのことが、どれほど重いか。


 こよいは泥から手を引き抜いた。指の間に温かい土の匂いが残っている。爪の下にはまだ霜里(しもざと)の霜が白く光り、手のひらには星降町(ほしふりまち)の水気が薄く(にじ)んでいた。


 三つの記録が、この両手に重なっている。


 巾着(きんちゃく)の拍動が安定した。

 深い場所に帰ってきたものの脈だった。神々が故郷の土に触れたような、そういう安堵(あんど)の震え。


 遠くで汽笛(きてき)が鳴った。低い音が泥の匂いの中を渡ってくる。海図の(かいずのまち)の駅は井戸(いど)から近い。濡れた線路を踏む振動が、地面を伝って足の裏に届いた。


 あさひが西を向いた。


 「来たな」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を脇に抱え直し、(うなず)いた。


 「中陵(ちゅうりょう)だ」


 空は低く、泥と同じ色をしていた。その下を、(きり)をまとった列車の影がゆっくりと近づいてくる。車体に張り付いた水滴が、曇った光を鈍く弾いていた。

 三人は井戸(いど)を離れ、駅舎(えきしゃ)の湿った長椅子に腰を下ろした。

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