第208話 不完全な未来
視界が白くなった。
一瞬だった。瞬きの間に、こよいは別の場所に立っていた。
あさひと久遠の姿はない。足元の砂利が消え、代わりに柔らかい土の感触がある。周囲は広い野原で、草が膝まで伸びていた。穂先が風に揺れて、乾いた音を立てている。空が高い。雲はない。
空に名前が漂っていた。
文字ではない。光の粒。陽光の中に浮かぶ埃のように、無数の名前が空気の中をゆっくり流れている。凍っていない。溶けてもいない。ただ、浮いている。重力から離れた名前たちが、風にも逆らわず、ただそこにある。
足元にも、名前があった。
土の中に。草の根の隙間に。地表のすぐ下で、まだ浮かび上がる前の名前たちが静かに横たわっていた。泥に沈んだまま目を閉じているような気配。井戸の底に溜まった水のように、ただそこに在る。観測されることを待っているのではない。呼ばれることを求めてもいない。名前というものが生まれた最初の場所に、ただ還って眠っている。
まだ見ぬ三つ目の井戸の気配も、この幻視の土の下にあった。人が名前をつける前から、名前の種子のようなものが土に混じっていたのだと、今なら分かる。観測が始まる前の世界。管理される前の名前。何者にも数えられず、何者にも凍らされず、ただ土の温度と同じ温度で在り続けた原初の記録。
解放されたのだと、こよいは直感で理解した。名前が自由になった世界。井戸も凍結も観測者もない、その先の世界。
自分の手を見た。皺が増えている。指の関節が太く、甲に薄い傷痕がいくつも走っていた。爪の形は同じだが、何年も歩き続けた手だった。日に焼け、風に荒らされ、それでも物を掴み続けてきた手。
腰に巾着がある。布の色が褪せ、元の藍色が灰色に近づいている。紐は何度も結び直した痕があり、一箇所は別の紐で繋ぎ替えてあった。それでもまだ形を保っている。まだ持っている。まだ、運んでいる。
こよいは巾着に触れた。神々の気配がある。だが若いときほど熱くはなかった。穏やかで、静かで、長い旅の終わりに近い温もり。
遠くに人影が二つ見えた。
片方は大きい。あさひだ。背中に背負っているのは——剣ではなかった。刀身が途中で折れ、針金で繋ぎ直されている。鞘から覗く刃の線が、途中で不自然に曲がっていた。折れた剣を捨てずに直して、まだ使っている。
もう片方は久遠。目録を脇に抱え、片手で額を押さえている。義眼があった場所に蒼光はなかった。黒い眼帯が、左の眼窩を覆っている。布の端が風に揺れて、その下には何もないのだと分かった。
焼き切れたのだ、とこよいは思った。蒼光を使い続けた果てに。すべてを見尽くして、義眼が燃え尽きた。
二人ともこちらを見ていた。表情は読めない。遠すぎる。だが立っている。背筋が伸びている。生きている。
空の名前が風に流された。光の粒が散らばり、草の先端に触れて消える。また別の粒が地面から昇り、空に加わる。終わらない循環。名前が生まれ、浮かび、降り、また昇る。
美しかった。こよいの胸が締まるほどに。
だが足元を見れば、地面に亀裂があった。野原の下に走る、黒い線。草の根が亀裂を跨いで伸び、どうにか大地を繋ぎ止めている。けれど亀裂は深く、底が見えなかった。
観測者がいなくなった世界の、構造の傷。名前を管理していた仕組みが消えたあとの、支えを失った大地。何百年もかけて作られた檻を壊せば、檻が支えていたものも崩れる。
亀裂の縁に膝をつき、覗き込んだ。暗い底に、泥に半ば埋もれた名前の粒が見えた。空に昇れなかった名前。土に還ったまま、再び浮かぶ力を持たなかった名前たち。光を失い、ただの砂粒のように地層に挟まれている。それでも消えてはいなかった。土と同じ温度で微かに脈打ちながら、名前であることだけを静かに続けていた。
名前は自由だった。世界は壊れていた。そして土の底には、どちらにも属さない名前たちが、ただ在った。すべてが同時に、ここにあった。
こよいは息を吸った。草と土と、遠い雨の匂い。まだ降っていない雨。空には雲がないのに、空気が水の気配を含んでいる。指先に付いた泥の湿り気が乾かない。土の中の名前に触れた手が、まだその記憶を残している。誰のものでもない名前の、ただ在るという感覚だけが、指の腹にじんわりと温かい。
視界がぶれた。
白い光が縮み、名前の粒が消え、色が戻った。足の下に砂利の感触が戻る。草の匂いが消え、乾いた街道の埃の匂いに変わった。
街道の真ん中に立っている。右にあさひ、左に久遠。二人とも若い。あさひの剣は折れていない。久遠の義眼は蒼く光っている。今の、この時間の二人がここにいる。
「こよい」
久遠の声。低く、鋭い。
「止まるな。歩け」
こよいは瞬きを繰り返した。視界に光の粒の残像がある。草の先端に触れて消えた名前の光。すぐに消えた。
「……見た」
「何を」
「未来。かもしれないもの」
声が震えた。美しかったのか、怖かったのか、自分でも分からなかった。両方だった。
「名前が全部、空に浮いてた。自由になってた。光の粒みたいに、どこにも縛られずに」
こよいは言葉を探した。巾着を握る手が汗ばんでいる。
「でも、世界がひび割れてた。地面に大きな亀裂が走ってて。久遠くんの義眼が消えてて、あさひの剣が折れてて。ぼくはまだ巾着を持ってた。すごく古い、色の褪せた巾着を」
久遠が義眼を細めた。蒼光が薄く明滅する。何かを計算している眼だった。幻視の内容を評価し、可能性の重みを測っている。
「予知ではない。共鳴の余波だろう。可能性のひとつだ。約束じゃない。……欠けた和音が見せた、欠けたままの未来だ。三つ目の律動が満ちたとき、同じ幻視がどう変わるか。それが本当の答えになる」
あさひが鼻を鳴らした。腕を組み、折れていない剣の鞘を肘で叩いた。
「折れたのは剣だけか」
「うん。あさひは立ってた。二人とも立ってた」
「なら上等だ」
三人は歩き出した。
空に名前はない。風は乾いている。街道は平坦で、先に何があるのか見えない。巾着は静かに腰で揺れている。共鳴の余韻はもう消えていた。
こよいの舌の上に、まだ降っていない雨の味が残っていた。土の底の、名前の温度も。
おたまも、こよいの足元を離れずに進んだ。




