第207話 神雧の珠の共鳴
星降町で乗り継いだ便は、砂の平原の手前で三人を降ろした。ここから先は、また歩きだった。
足の裏が痺れた。
地面からだった。振動ではない。もっと深い——骨に直接触れるような、低い唸り。街道の砂粒が微かに跳ね、こよいの靴底を通して脛まで響いた。
こよいは立ち止まり、足元を見下ろした。土の表面に変化はない。砂は乾き、石は転がったまま。だが靴底を通して、地の底から何かが上ってくる。水脈が脈打つような、ゆっくりとした律動。
巾着が跳ねた。
腰に下げた布袋が、内側から弾かれたように揺れる。こよいは咄嗟に手で押さえた。神々が暴れている。一つではなく、全部が。それぞれ異なるリズムで振動し、布の内側で互いにぶつかり合っていた。
「久遠くん——」
「分かっている」
久遠は義眼を全開にしていた。蒼光が左の眼窩から溢れ、空気中に薄い線を描いている。目録は閉じたまま脇に抱えていた。目録を見る必要がないほど、情報が義眼に直接流れ込んでいるのだとこよいは理解した。
「三つの井戸だ」
久遠の声は低かった。平坦な分析の声ではなく、確信に裏打ちされた低さだった。
「霜里の氷。星降町の水。二つの井戸で、神々にそれぞれの振動が刻まれた。いま、その二つが合わさろうとしてる。……だが、帳面の三角形は三点だ。三つ目——海図の町の井戸が、まだ空いている」
巾着の揺れが大きくなった。紐が腰骨に食い込むほど布袋が跳ねる。こよいは両手で巾着を胸に押し当てた。布越しに、神々の熱が肋骨の一本一本に届く。心臓が神々の律動につられて速くなった。
「周波数が揃い始めている」
久遠が言った。蒼光の線が空中で交差し、三角形を描いた。二つの頂点が明滅し、三つ目の頂点だけが薄く、待つように霞んでいる。
「氷の凍結の高い振動と、水の融解の中間の波。異なる二つが、一つの和音になろうとしている。……欠けた和音だ。それでも、鳴る」
あさひが膝をつき、掌を地面に押し当てた。指の間から砂がこぼれた。
「土が鳴ってる」
低い声。あさひの表情が変わっていた。剣士の顔ではない。何かに耳を傾ける、幼い頃の集中を思い出したような顔。
「鐘みたいだ。地面の下で、でかい鐘を一つ叩いたみたいな音がする。遠くて、重くて——腹に来る」
こよいにも聞こえた——聞こえたというより、感じた。耳ではなく肋骨で。心臓の裏側で。音というには低すぎる振動が、体の内側を這い上がってくる。歯の根が疼き、視界の端が揺れた。
巾着が光った。
布の隙間から、幾筋もの光が漏れた。四柱の神々が、井戸ごとに刻まれた律動で明滅している。霜里の律動は白銀に。星降町の律動は淡い琥珀に。二つの色が巾着の布を透かし——その間で、まだ色を持たない第三の空白が、暗く脈打っていた。
光が揺れ、混じり合い、溶け合った。
白銀と琥珀が境界を失い、一つの色になりかける。欠けたまま、それでも深い。名前のない色。こよいはそれを見つめた。見たことのない光だった。温かくも冷たくもなく、ただ深い。井戸の底を覗き込んだときの暗さに似ていて、しかし暗さではなく光だった。
視界が白く飛んだ。
一瞬だった。瞬きの裏側に、別の世界が差し込まれたような——こよいは息を呑んだ。見えたのは空だった。果てのない空に、文字が浮かんでいる。人の名前だった。何百、何千という名前が、風に乗って漂い、自由に泳いでいた。鳥のように、花弁のように。名前たちは互いに呼び合い、触れ合い、光の尾を引いて流れていく。
美しかった。名前が誰のものでもなく、同時にすべての人のものである世界。こよいの胸が震えた。ここに辿り着きたかったのだと、体の奥の何かが囁いた。
だが足元を見下ろした瞬間、息が凍った。大地にひびが入っていた。蜘蛛の巣のように広がる亀裂から、暗い風が吹き上がっている。そして隣に立つ久遠の顔を見た——左の眼窩が空だった。義眼がない。蒼光の代わりに、底の見えない闇がぽかりと口を開けている。久遠は気づいていない様子で、空を見上げたまま微笑んでいた。
あさひの手元に視線を移した。あさひは剣を握っていた——折れた剣を。刃が半ばから断ち切られ、切断面が鏡のように空を映していた。あさひもまた、折れた刃に気づかず、空の名前たちを目で追っている。
美しい世界の中に、壊れたものたちが静かに立っている。
光が引いた。幻視が消えた。こよいは自分の掌を見た。巾着を握りしめた指が白くなっている。見えたものの意味を問う前に、共鳴の光が答えのように脈打った。
「共鳴だ」
久遠が呟いた。蒼光が消えていた。義眼の限界を超えたのか、あるいは——もう義眼で見る必要がないほど、光が溢れているのか。久遠の頬にも巾着の光が映り、蒼ではない色に染まっている。
「三つの井戸が鍵だ。……二つでこれなら、三つ揃えば。海図の町の井戸が、最後の頂点になる。この共鳴が——」
久遠は言葉を切った。
静寂。
地鳴りが止んだ。巾着の光が収まった。神々の震えが、波から凪へ変わった。街道に音が戻る。風の擦れる音、遠い鳥の声。さっきまで聞こえなかったのは、共鳴がすべてを覆い隠していたからだ。
こよいは胸から巾着を離し、掌の上に置いた。布の温度は平熱に戻っている。だが中の神々が変わったことが分かった。重さが違う。さっきまでばらばらに揺れていた神々が、今は一つの塊のように静かに沈んでいる。二つの色は溶け、神々は欠けたままの深い光を帯びていた。
こよいはその光を、胸の中でそっと呼んだ。
——神雧の珠。
いつか三つ目の律動が満ちたとき、この珠は完成する。
おたまが、いつの間にか隣に座っていた。猫は掌の上の巾着を見上げ、目を細めて、深く頷くように一度だけ瞬きをした。
あさひが立ち上がり、掌の土を払った。膝に砂の跡が残っている。
「終わったのか」
「始まったんだ」
久遠が目録を開いた。蒼光が戻る。頁の上に、さっきまでなかった線が浮かんでいた。綴じ糸の奥から滲み出したような、薄い道筋。ただし三角形は、閉じていない。
「経蔵への道筋が見え始めてる。最後の頂点——海図の町を巡れば、閉じる」
こよいは巾着を腰に戻した。紐を結ぶ指先に、共鳴の残響がまだ微かに痺れていた。




