第205話 八重の覚醒
久遠が立ち止まった。
目録を両手で開き、義眼の蒼光を頁の奥に沈めている。普段の読み方ではなかった。頁の表面ではなく、綴じ糸の奥を覗き込むような眼の使い方だった。蒼光が頁を透過し、紙の裏側まで染みている。
「どうしたの」
「黙れ」
短い声。久遠が黙れと言うのは、本当に集中しているときだけだ。こよいは口を閉じた。あさひが無言で周囲に視線を配り、剣の鯉口に指をかけた。
街道の砂の上に三人の影が伸びている。日が傾き始めていた。
久遠の義眼が明滅した。蒼光が強まり、弱まり、また強まる。心臓の拍動のように。
目録の綴じ糸が淡く震えた。ページを束ねている糸の一本一本が、蒼光に反応して微かに揺れている。こよいの眼でも、近づけば見えるほどだった。
「……八重だ」
こよいの胸が跳ねた。
「八重さんの記録?」
「記録じゃない」
久遠が目録から顔を上げた。蒼光が左の眼窩に張り付いたまま、薄く震えている。表情が硬い。だが瞳の奥に、驚きがあった。
「信号だ。弱いが、途切れていない。目録の頁にではなく、綴じ糸の中に——記録の裏側に、何かが流れている」
あさひが剣の鯉口を切った。金属がこすれる短い音。
「敵か」
「違う。八重の信号だ。間違えようがない」
久遠は目録を傾け、蒼光の角度を変えた。綴じ糸が光を含んで膨らむように見えた。目に見えるほどではない。義眼だけが拾える微光。だがその微光の中に、規則的な脈動がある。
「消えたはずだった。観測者が記録を封じたとき、八重の痕跡は完全に消去されたと俺は判断した」
久遠の声に、珍しく熱が混じった。義眼の蒼光が普段より明るい。
「消えていなかった。表面から消されただけだ。綴じ糸の繊維に、信号を埋め込んでいたんだ。記録の骨組みの中に、自分自身を織り込んで——あいつは、消される前に、自分の存在を目録の構造そのものに刻んだんだ」
久遠が息を吐いた。感嘆とも安堵ともつかない呼気。
こよいは巾着を見下ろした。布の上から、中の神々に触れる。
温かい。いつもと違う温かさだった。神々が内側から震えている。風に吹かれたときの揺れではなく、何かに呼応する揺れ。脈打つようなリズムがあり、それは久遠の目録の綴じ糸の明滅と同じ間隔だった。
「神々が反応してる」
「八重の信号に共鳴している。巾着の中の神々が、八重を覚えているんだ」
月の神が銀色に明滅した。他の神々は静かだが、月の神だけが強く反応している。巾着の布越しに、こよいの掌を冷たい光が照らした。銀色の光の粒が、布の編み目から漏れて空気中に散った。
「久遠くん。八重さんは生きているの」
「生きているかは分からん。だが、存在している。記録として消されたはずの場所で、まだ信号を出し続けている。観測者の網の中で——いや、網の構造を利用して」
久遠が目録を閉じ、蒼光が収まる。眼窩の縁を指で押さえた。蒼光を長く使いすぎた疲労が、薄い皮膚の下に滲んでいる。
「ただ残っているだけじゃない。信号の方向がある。こちらに向かって伸びている」
「ぼくたちに?」
「ああ。届くかどうかは分からん。観測者の網は深い。だが八重は——」
久遠は言葉を切った。義眼を押さえたまま、少しの間黙った。
「あいつは俺たちに向かって手を伸ばしている」
あさひが剣を鞘に戻した。鯉口が閉まる乾いた音が、静かな街道に響いた。
「届くのか」
「今は無理だ。観測者の網が深すぎる」
「なら、経蔵に辿り着いたときか」
久遠は頷かなかった。断言できることではないのだろう。ただ目録を胸に抱え直した。綴じ糸に手が触れたとき、一瞬だけ蒼光が戻り、すぐに消えた。八重の信号に、義眼が無意識に応えたように見えた。
こよいは巾着を両手で包んだ。月の神の光はもう消えていたが、雨の神の温もりが残っている。八重の信号が通った道筋を、神々が覚えているかのように。
三人は歩き出した。おたまが足元を縫うように付き添い、いつの間にか先頭を行くようになっていた。
言葉は少なかった。だが歩幅が揃っていた。地面を踏む音が三つ、同じ間隔で砂を叩く。
おたまが、ふいに足を止めた。
尾の毛が逆立っている。猫は街道の先を見据えたまま、一歩も動かなくなった。
街道の色が変わった。
最初は光の加減だと思った。日が傾いて影が長くなっただけだと。しかし足元の砂を見下ろしたとき、砂の粒が灰色に染まっていた。先ほどまでの赤茶けた乾いた色ではない。すべての粒から色味だけが抜き取られ、温度のない灰だけが残されている。
空気が重くなった。肺の底に鉛を流し込まれるような圧。こよいは息を吸い、咳き込んだ。喉の奥にざらついた粒が張り付く。灰だった。目に見えないほど細かい灰色の粒が、空気そのものに混じっている。
舌の上に乗った。味はなかった。味がないことが怖かった。舌が触れているのに何も返さない粒子。存在しているのに、こよいの感覚を拒む物質。皮膚の表面を這うように降り積もり、毛穴の一つ一つを塞いでいく感触があった。腕をさすっても落ちない。灰は肌の内側に沈んでいく。
「影だ」
久遠が低く言った。義眼の蒼光が揺れている。
「二度目の。前より深い」
街道の真ん中に影が落ちていた。建物の影でも、木の影でもない。何もない空から垂直に降りてくる影。輪郭がない。中心だけがあり、そこから灰色が滲み出している。
あさひが剣を抜いた。だが斬る対象がない。刃が灰色の空気を裂いても、切り口は音もなく塞がり、何も変わらない。あさひの頬に灰の粒が触れ、肌の色を一瞬だけ奪った。
影の中心に、何かがいた。形はない。だが密度がある。灰色が最も濃い一点に、観測する意志だけが凝っている。かつて三人を見つめた眼差しの残響。観測者の亡霊が、この街道に染みついている。
巾着の奥で、風の神がまだ微かに震えていた。




