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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第7章 灯の距離

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204/250

第204話 あさひの故郷からの風

挿絵(By みてみん)


風が変わった。

 南寄りの、乾いた熱を含んだ風。街道の(すな)を巻き上げず、三人の頬だけを()でるように吹いた。こよいの前髪が揺れ、巾着(きんちゃく)(ひも)が腰の横で小さく踊った。さっきまでの風とは質が違う。温度だけではない。肌に触れたあとの残り方が違った。通り過ぎるのではなく、留まろうとする風だった。


 足を止めかけた。だが先にあさひが立ち止まっていた。


 背中が硬い。剣の(つか)に手を伸ばしたのではない。ただ立っている。風を浴びるように、(あご)を上げて。街道を挟む枯れ草が波のように傾くなか、あさひだけが動かなかった。


 「あさひ?」


 返事がない。聞こえていないのではない。聞こえすぎているのだ。


 風には匂いがあった。焚き火の煙。干した草の青さ。川底の泥と、裸足で石を踏んだときに跳ねる水の冷たさ。どれも、こよいには覚えのない匂いだった。ひとつの土地に長く住んだ人間だけが(まと)う、生活の層がそこにあった。煙の下に草があり、草の下に水があり、水の底に石と泥が重なっている。何年もかけて積もった匂いが、ひとつの風に圧縮されて届いていた。


 おたまが、風上に顔を向けて座った。目を細め、鼻先だけを動かして、風の層をひとつずつ数えるように嗅いでいる。首輪の小鈴は、この風には鳴らなかった。

 けれど巾着(きんちゃく)の奥で風の神が鋭く震えている。それに応えるように、雨の神が体温よりわずかに高い熱を返した。布越しに温もりがこよいの腰に伝わった。名前の匂いだ。誰かがあさひをその名で呼んでいた頃の、生活の匂い。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を細めた。蒼い光が微かに揺れる。


 「名の断片だ。風が運んでいる」


 声の調子はいつもと変わらない。だが目録(もくろく)に手を伸ばさなかった。記録ではなく、観察を選んだ。久遠(くおん)にも分かるのだ。この風が、ただの風ではないことが。


 風の中に、声が混じっていた。


 聞き取れない。ほとんど砂粒(すなつぶ)のように細い音。だが確かに人の声だった。幾つもの声が重なり、そのどれもがひとつの名前を呼んでいるように聞こえた。子供の笑い声。(しか)る声。水を汲む音に混じって名前を呼ぶ声。


 あさひの故郷だ。こよいが知らない、あさひがまだ名前を持っていた頃の場所。剣もなく、旅もなく、ただ日暮れまで河原で遊んで帰る日々があった場所の匂いが、何百里も離れたこの街道に届いている。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に寄せた。風の神が風の声に共鳴して揺れている。雨の神の温もりがそれに重なり、じわりと広がった。


 あさひの横顔が見えた。こよいが知っているどの表情とも違っていた。戦うときの顔でも、飯を食うときの顔でも、眠る前の無防備な顔でもない。


 口元が(ゆが)んでいる。笑っているのでも、怒っているのでもない。(こら)えている。何かを飲み込むために、歯を()()めている顔だった。こめかみの筋が浮き、日に焼けた首筋に汗が光った。


 声がひとつ、他より近くに聞こえた。他の声を押しのけるのではなく、風の一番底を流れるように、静かに、しかし途切れずに。


 女の声。柔らかく、低く、繰り返し同じ音を(つむ)いでいた。名前だ。あさひの名前ではない——あさひが、あさひになる前の名前。剣を持つ前に呼ばれていた音。夕飯ができたと呼ぶ声。河原から帰れと呼ぶ声。その音が、風の最も温かい層に混じって届いた。


 声の輪郭(りんかく)が、ほどけていく。母親が台所から窓越しに呼ぶときの、少し苛立(いらだ)って、けれど心配が(にじ)んだ響き。何度呼んでも帰ってこない子供を、それでも呼び続ける声の、(あきら)めきれない尾の部分。その尾だけが、風に乗って最後まで残っていた。


 こよいにはその名が聞き取れなかった。風が運んできたのは、あさひだけに届く距離の声だった。十歩も離れていないのに、こよいの耳には風の(こす)れる音しか届かない。


 あさひの指が震えた。一瞬だけ。右手の人差し指と中指が、剣の(つか)でもなく、(こぶし)でもなく、何かを(つか)みかけて空を切った。幼い子供が母の(すそ)を引くときの、あの指の形だった。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を開きかけ、やめた。記録すべきものではないと判断したのだろう。蒼光(そうこう)が一瞬だけ揺らいで、消えた。義眼(ぎがん)を閉じるように。


 風が弱まった。最初に声が消えた。次に匂いの層が、上から順に()がれていった。煙が消え、草が消え、最後に泥の匂いが(すな)に吸われた。


 南の空は何も変わらず、乾いた青を広げているだけだった。枯れ草が元の姿勢に戻り、街道の(すな)が落ち着いた。


 あさひの喉が動いた。何かを()み込む動作。目の(ふち)が赤い。けれど涙は出ていなかった。出さなかったのだ。あさひという名前で生きると決めた人間が、もう使えない名前に泣くわけにはいかない。そういう意地が、赤い目の(ふち)に張りついていた。


 それから両の(こぶし)を一度だけ握り締め、開いた。指の関節が白くなるほど強く握っていた。


 (あご)を引く。肩の力を抜く。ひとつ、深く息を吐いた。胸の底から押し出すような呼気だった。


 「行くぞ」


 声はいつも通りだった。少し粗くて、短くて、前だけを向いている声。


 「うん」


 「……ああ」


 久遠(くおん)が短く応じた。何も()かなかった。こよいも()かなかった。()けなかったのではない。()く必要がないと思った。あさひの背中が、それだけ語っていた。


 だが久遠(くおん)の指が、目録(もくろく)の背を()でていた。綴じ糸の上を親指の腹がゆっくり滑る。無意識の仕草だった。風が去った沈黙のなかで、指先だけが何かを辿(たど)っている。蒼光(そうこう)は消えたままだったが、義眼(ぎがん)の奥にかすかな明滅があった。こよいが見たのは一瞬だけだ。けれど久遠(くおん)の横顔に、風の声を聴いていたときとは違う硬さが走った。風が運んだ名の断片に感応したのか、それとも綴じ糸の芯に、風とは別の脈動を拾ったのか。久遠(くおん)自身にもまだ判別がついていないように見えた。


 三人が歩き出す。あさひが先頭。いつの間にか、そうなっていた。あさひの足音だけが、さっきより少し重い。靴底が(すな)をしっかり踏む音。逃げない足取り。


 こよいは一度だけ後ろを振り返った。


 通ってきた道が(すな)に覆われ始めていた。風の残した痕跡(こんせき)ごと、街道が自分の表面を塗り替えている。足跡も、匂いも、母親の声の残響も。新しい(すな)が古い(すな)の上に積もり、何もなかったような顔をしている。


 あさひは振り返らなかった。


 こよいは前を向いた。巾着(きんちゃく)の中で神々がまだほんのり温かい。故郷の風が残した熱を、名前のない神々が抱いて離さないのだと思った。そして久遠(くおん)の手元では、目録(もくろく)の綴じ糸がまだ微かに震えていた。


 三人分の足跡が、新しい(すな)の上に刻まれていく。


 それもすぐに消えるのだろう。けれど今は確かに、ここにある。

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